メキシコ湾原油流出事故の直後に大学生になったダニエルを取り上げてみます。街角でパネルを掲げ、World Wildlife Foundation への募金を募っている大学生たちと出くわします。大学生たちは油にまみれた鳥たちをできるだけ多く助けようとしています。いつもなら、ダニエルはただ「これは特段重要ではない」とか「今この瞬間に時間を使う価値はない」、あるいは「他の誰かがやってくれるだろう」などと考えて断りますが、しかし今回ダニエルは、自分の脳みそがどれほど数字に弱いのかを考えてきていたので、簡単な健全性テストを行うことに決めました。
またダニエルはスコープ無反応性についても考え続けてきたので、多数の鳥について彼が実際にどれほど大事だと思うのかを自分の脳は誤って報告するだろうと予測します。大事に思うという内側から来る感情は、問題の状況の実際の重要性と奇麗に対応するとは期待できません。そのためダニエルは、鳥の油をとることをどのくらい自分が大事だと思っているのかについて、単に自分の直感に尋ねるのはやめ、「黙って計算する(shut up and multiply)」ことにします[3]。
いまやダニエルは、どうやってもやりきることはできないと気づいています。スコープ無反応性(と、自分の脳が大きな数のその大きさについて嘘をついているという事実)の分を補正したあとには 、WWF のような「より重要ではない」問題でさえ、突如として人生を捧げるに値するように思えてきます。突如として、野生生物の絶滅も ALS も乳がんも全部、それを解決するためには山をも動かすべき問題であるように思えてきますが、動かすべき山が多すぎることも、 ALS さえ解決すれば、すべてが一件落着というわけでもないこともついに彼は理解したのです。それにしても、いったいぜんたい、こうした山はどうやってできたのでしょうか。
私たちのケア・メーターは壊れています。数が大きくなるとうまく作動しません。世界的問題の規模をその大きさに忠実に表象することは誰にもできません。しかし他者を大事に思いたいという気持ちを感じられない(can’t feel the caring)としてもそのことは、他者を大事にする(do the caring)ことができないことを意味しません。
「黙って計算する(shut up and multiply)」はこの記事の著者である Nate Soares が属す Less Wrong の有名な概念です。「悪さをしているのは計算ではなく直観だと見分けられる場合には、黙って計算するスキルとは、〈期待効用計算はときに正しく、我々はそれを〔「直観的でない(intuitively unappealing)」と退けるのではなく〕受け入れる必要があると認める能力です。」(https://www.lesswrong.com/tag/shut-up-and-multiply )
他者を気づかうこと(care)について
This is a Japanese translation of “On caring”
他者を気づかうこと(care)について[1]
1
数が膨大である場合、その大きさをうまく感じることが私にはできません。話題となっている数がだいたい1000を超えると(あるいは100を超えたあたりからすでに)数は単に「大きい」としか思えなくなります。
夜空で最も明るい星、シリウスを取り上げてみましょう。シリウスは地球100万個分の大きさだと言われても、「そんなにたくさんの地球と同じ大きさなのか」くらいにしか感じないでしょう。今度はその代わりに、シリウスの内側には10億個の地球が入る、と言われても...やはり「そんなにたくさんもの地球が入るのか」と感じるだけでしょう。
ふたつの感じ方は全く同じです。文脈によっては、脳が10億は100万よりも遥かに大きい数だと認めつつ、地球10個分の星は、地球100万個サイズの星よりも大きいということが一体どのようなことなのかを感じようと無駄な努力をすることもあります。しかし文脈を抜きにすれば── 「10億」と聞いたときに「100万」を参照点とするのでなければ── これらの数はただ「なんとなく大きい」と感じられるだけです。
本当に大きな数であれば、その大きさへの畏怖を少しは感じられもするでしょう。「1のあとに0が100個続く数」と聞けば、それは10億よりもずっと大きいと感じます。しかしだからといって、その程度が10億の10 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000 000倍であるように(直感的に)感じられることはないのは確実です。4つのリンゴが2つのリンゴの2倍の数だと内から感じられるのとは違います。私の脳はこの種の大きさの違いを真正面から受け取ることができないのです。
この現象はスコープ無反応性[2]と関係していて、私にとって重要な問題です。というのも私が生きている世界では、私が大事に思っている(care)ものごとの数は途方もく莫大だからです。
例えば何十億もの人びとが不衛生な環境で暮らし、そのうち何億人もが基本的なニーズを満たせず、かつ/または病気で亡くなっています。その人たちのほとんどは私の目の届かないところにいますが、それでも私は、そうしたひとたちのことを大事に思って(care)います。
ある人の命がそのあらゆる喜びや悲しみとともに失われてしまうのは、その原因が何であれ悲劇です。そして、その悲劇性は私が離れたところにいるからといって減るわけではありませんし、あるいはそのことを知らなかったからとか、助ける術を知らなかったとか、個人的な責任はないということによって減るわけでもありません。
このことを知っているからこそ、私はこの惑星に住むひとつひとつの個体が大事だと思う(care)わけです。問題は、私がひとりに感じる気づかいの量をとって、それを10億倍に膨らませることが私の脳には端的にできない、ということです。それほど膨大な量を内から感じとる能力は私にはありません。私のケア・メーターの目盛はそんなに高いところにまで達していないのです。
そして、これこそが問題なのです。
2
よく言われることですが、勇敢さとは恐れを知らないことではなく、恐れつつもとにかく正しい(right)ことをすることです。同じ意味で、世界について気にかける(care)ことは、この世界の苦しみの総量に対応する直感を得ることではなく、ともかく正しいことをすることです。たとえ、この世界の苦しみの総量に対応する感覚をもたなかったとしても、です。
私の内面にあるケア・メーターはだいたい150人分の目盛しかありませんでしたし、私のケア・メーターは、苦しんでいる何十億の存在を私が気にかける(care)その量を表現することが端的にできないのです。私の内面にあるケア・メーターの目盛りは単純に、そんなに高いところまで達していません。
人類の賭け金は、想像を絶するほどの額にのぼります。いまのこの日にも少なくとも何十億人が苦しんでいますし、最悪なことに、これから存在する可能性のある1015(あるいはそれ以上の)人間やトランス・ヒューマン、ポスト・ヒューマンの存在が、いまここで私たちの行動に左右されています。将来ありうる高度に複雑化した文明や将来可能な経験、芸術や美が、すべて今に懸かっているわけです。
賭け金のこの額を見て、あなたの内にあって他者を大事に思う気持ちに関わるケア・メーター内──「10」や「20」といった目盛しかもちませんが──は、この状況の重みを把握することが全くできません。
ひとの命を救うのはかなり気持ちのいいことですし、ひとりの命を救うことはおそらく世界を救うのとほとんど同じくらい気持ちがいいことでしょう。ひとりを救うよりも、世界を救うことが何十億倍も気持ちがいいということは絶対にありません。なぜなら、あなたのハードウェアはひとりの命を救うときよりも十億倍も大きい感情を表現することができないからです。しかし、誰かの命を救うことから得られる利他的興奮(altruistic high)が世界を救うことで得られる利他的興奮と驚くほど似たものになるとしても、互いによく似たそうした感情の背後には、天地の相違があることを覚えておきましょう。
私たちの内にある、他者を大事に思う(care)感情は、大きな問題を抱えた世界での振る舞い方を決めるのには適していません。
3
私がはじめてスコープ無反応性を意識するようになったとき、考え方に変化がありました。言葉にするのは少し難しいのですが、二、三の物語から始めさせてください。
シアトルにてアマゾンのソフトウェア・エンジニアとして従事しているアリスの例を取り上げてみましょう。シアトルでは、月に1、2回、パネルを掲げた大学生たちが街角に現れて、国境なき医師団に寄付するよう一生懸命、街行く人びとに訴えかけています。たいていの場合、アリスは目を合わせず、いつも通りの日常を過ごしますが、この月、大学生たちはついに彼女を立ち止まらせることに成功しました。大学生たちは国境なき医師団について説明し、国境なき医師団への寄付にはなかなか正当な動機があるようだとアリスは確かに認めざるを得ませんでした。罪悪感と社会的圧力、そして利他主義の入り混じった感情からアリスは20ドルを大学生たちに渡して、足早に仕事に向かいました。(そして次の月、また大学生たちが現れたとき、アリスは目を合わせようとしませんでした。)
次に、フェイスブックで友達から、アイスバケツチャレンジに指名されたボブを取り上げてみます。ボブは忙しくてアイスバケツチャレンジをする暇はないと思い、その代わりただ100ドルを ALSA に寄付しました。
次は、大学のソロリティ(女子寮兼社交サークル) のΑΔΠ に所属するクリスティーンです。 ΑΔΠ は一週間で全国乳がん基金への寄付金をどちらが多く集められるのかを ΠΒΦ(また別のソロリティ)と競っています。クリスティーンは負けず嫌いなので、募金活動に精を出し、彼女自身その週全体で二、三百ドルほどを(特に ΑΔΠ が先を越されているときに)寄付しています。
以上三人は皆、慈善団体にお金を寄付しています...素晴らしいことです。しかし三人の物語にはどこか似たところがあることに読者の皆さんは気づくはずです。そう、彼らの寄付は大方、社会的文脈(social context)に動機づけられています。アリスは義務と社会的圧力を感じていますし、ボブは社会的圧力と、ほんの少しの友情も感じていたかもしれません。クリスティーンは友情と競争心を感じています。これらはどれも真っ当な動機ですが、そうした動機は社会的なお膳立てにかかわり、慈善寄付の内容にはほんの少し触れる程度の関係しかありません。
アリスであれボブであれクリスティーンであれ、彼らが価値あるとおそらく考えているこうした問題に自分の時間と資産をまるごと全部寄付しないのはなぜなのかと尋ねたとしたら、彼女たちはあなたのことをおそらく失礼なやつだと考えるでしょう(そう考えるのはもっともです!)。もう一押しすれば、今は少しばかり金欠なんだとか、自分がもう少し善い人間だったらもっと寄付しただろうにと言うかもしれません。
しかしその様な疑問は、ある意味間違っているようにも感じられることでしょう。自らの財産をすべて投げ与えてしまうことは単純に、お金を使ってすることではありません。私たちはだれでも、自分の所有物をすべて投げ打ってしまえる人々は本当に偉大だと声を大にして言うことができますが、しかし内心では、そんな人はどこか頭のねじが外れているとも分かっています。(良い意味でねじが外れていますが、頭のねじが外れていることに変わりありません。)
以上は、私がしばらくのあいだ安住していたマインドセットです。しかしその代わりとなるマインドセットもあり、あなたがスコープ無反応性を内面化し意識し始めるなら、それは怒濤のごとくあなたに衝撃を与えることもありえます。
4
メキシコ湾原油流出事故の直後に大学生になったダニエルを取り上げてみます。街角でパネルを掲げ、World Wildlife Foundation への募金を募っている大学生たちと出くわします。大学生たちは油にまみれた鳥たちをできるだけ多く助けようとしています。いつもなら、ダニエルはただ「これは特段重要ではない」とか「今この瞬間に時間を使う価値はない」、あるいは「他の誰かがやってくれるだろう」などと考えて断りますが、しかし今回ダニエルは、自分の脳みそがどれほど数字に弱いのかを考えてきていたので、簡単な健全性テストを行うことに決めました。
ダニエルは、原油流出事故後のメキシコ湾沿岸を歩いていて、能う限り最大のスピードで鳥たちを洗浄している一団に出くわす場面を思い浮かべます。その人たちは、発見したすべての鳥を洗浄するための資源をもっていません。ぬめぬめした油をまとい、目もほとんど開けることができない可哀そうな若い鳥が、ダニエルの足元でじたばたしています。ダニエルは膝をついてその小鳥を持ち上げ、作業台の上にあげてあげます。そこで、洗浄係のひとりがダニエルにこういいます。人手が足りていないので、既にいる人員でその鳥を洗浄することはできないが、ダニエルがそこら辺に落ちているグローブをつけて、三分ほど洗浄すれば、自分でその鳥を救うこともできるでしょう、と。
ダニエルは、その状況に置かれたら自分の時間のうち3分間をこの鳥を助けるのに割くだろうし、そしてまた、誰か他の人に数分かけてその鳥を洗浄してもらえるとしたら、最低でも3ドルは喜んで支払うだろうとも判断します。ダニエルは自分の気持ちを点検して、この決断は単に、自分の目の前に鳥がいるところを想像したからではないことに気づきます。すなわちダニエルは、油にまみれた鳥を救うことは、自分の時間のうち3分間(あるいは3ドル)に、どこかしら漠然としていますが純粋な意味で値すると感じています。
またダニエルはスコープ無反応性についても考え続けてきたので、多数の鳥について彼が実際にどれほど大事だと思うのかを自分の脳は誤って報告するだろうと予測します。大事に思うという内側から来る感情は、問題の状況の実際の重要性と奇麗に対応するとは期待できません。そのためダニエルは、鳥の油をとることをどのくらい自分が大事だと思っているのかについて、単に自分の直感に尋ねるのはやめ、「黙って計算する(shut up and multiply)」ことにします[3]。
メキシコ湾で流出した分だけでも、何千羽もの鳥が油まみれになっています。「黙って計算」をしたあとで、ダニエルは、自分が油にまみれた鳥を実際に(actually)大事に思っているその量の下限は、2か月の過酷な労働と/または50,000ドルであることに(増大する恐怖と共に)気づきました。さらに、これは他の原油流出事故によって脅かされる野生動物を数に入れてさえいません。
また、ダニエルが鳥の油をとることをそれほど大事に思うとしたら、飢餓や貧困、病気をひとまず脇に置いておいたとしても、工場式畜産の問題について彼が実際に大事だと思う量はどれほどになるでしょうか。国家を破壊する戦争について、ダニエルは実際はどれほど重要だと思う(care)でしょうか。ネグレクトされ、貧困にあえぐ子どもたちについてはどうでしょうか。人類の未来についてはどうでしょう。彼が手にするよりも遥かに多くのお金と時間があってはじめてつりあう規模で、ダニエルはこうしたものごとが大事だと思っています。
ダニエルは、自分が実際に〔この世界の様々な問題について〕どれほど大事に思っているのか、そしてこの世界の状態がどれほど貧しいものなのかをはじめて垣間見ることになります。
これはダニエルに奇妙な影響をもたらしました。ダニエルの推論は一周回って、油にまみれた鳥を実際に、3分または3ドル分も大事に思うことはできないと気づきます。それは、鳥たちがその時間と金額に値しないからではありません(し、実際のところ、経済は鳥の生存よりも価値のないものに3ドルの値段をつけて産み出している、ともダニエルは考えています)。そうではなく、ダニエルは鳥たちを救うのに自分の時間とお金を割くことができないからです。突如として、機会費用があまりに高いように思えてきます。他にやるべきことが多すぎるのです!人びとは病に伏せ、飢え、死につつあり、私たちの文明の未来全体もまた私たちの肩にかかっています!
ダニエルは結局、50,000ドルをWWFに与えることはありませんでしたし、ALSA や NBCF に寄付することもしません。しかし自分の持ち金のすべてを寄付しないのはなぜかとダニエルに尋ねるなら、彼はあなたのことを笑って見たり、失礼な奴だと思ったりはしないでしょう。ダニエルは、あなたが気にも留めていなかったことからずっと遠くに進んでいて、真の問題の重みについて彼の心がこれまでずっと彼を騙していたことに既に気づいています。
いまやダニエルは、どうやってもやりきることはできないと気づいています。スコープ無反応性(と、自分の脳が大きな数のその大きさについて嘘をついているという事実)の分を補正したあとには 、WWF のような「より重要ではない」問題でさえ、突如として人生を捧げるに値するように思えてきます。突如として、野生生物の絶滅も ALS も乳がんも全部、それを解決するためには山をも動かすべき問題であるように思えてきますが、動かすべき山が多すぎることも、 ALS さえ解決すれば、すべてが一件落着というわけでもないこともついに彼は理解したのです。それにしても、いったいぜんたい、こうした山はどうやってできたのでしょうか。
元々のマインドセットにあっては、ALS に取り組むためにダニエルが全てを投げ打たなかった理由は、単にその問題が…それほど切迫したものに思えなかったからでした。あるいは、十分に取り組みやすいものに思えなかったからとか、十分に重要に思えなかった、といったところです。これらは理由になりそうですが、本当の理由はむしろ、「ALS に取り組むためにすべてを投げ打つ」という考えが現実的な可能性として彼の心に浮かぶことすらなかったからです。その考えは、常識から余りにかけ離れています。ダニエルには、ALS に取り組むためにすべてを投げうつという可能性は、我が事としては考えられませんでした。
新たなマインドセットにあってダニエルは、ありとあらゆることを我が事として考えています。 ALSに取り組むためにすべてを投げ打つことをしない唯一の理由は、最初に取り組むべき問題があまりにも多いからです。
アリスとボブとクリスティーンが世界の諸問題のすべてを解決するのに時間を割いていないのは、そうした問題を視野に収めようという考えが、思考回路になかったからです。彼女たちにそうした問題について考えるよう促すなら――そうした問題がどれほど大事だと思っているのかを思い出せるような社会的文脈に(できれば罪悪感や圧力なしに)彼女たちをおくなら――、彼女たちは多少のお金を寄付する可能性が高いでしょう。
それと比べてダニエルや、これまで話してきたような心の変化を経験したその他の人たちが、世界にある問題のすべてを解決しようと時間を割いていないのは、ただただ問題が多すぎるからです。(ダニエルがさらに進んで効果的利他主義のような運動を見つけ、この世界の最も切迫した問題の解決に向かって貢献し始めてくれるといいのですが。)
5
ここで私は、善人のなり方について講釈をたれようとしているわけではありません。善人になるために私と意見を同じくする必要はありません(当たり前ですが)。
むしろ私は、視点の変化を指さそうとしているのです。私たちの多くは、自分から遠く離れたところで苦しんでいる人々を気にかける(care)べきだと理解しながら、それができないでいる生活を過ごしています。この態度は少なくとも部分的には、私たちのほとんどがはっきりと意識することなく、自分の内面にあるケア・メーターを信頼しているという事実と結びついています。
この「他者を大事に思う・気にかける気持ち(care feeling)」はたいていの場合、死に瀕している人なら全員救わなければならないと私たちを狂わせてしまうほど十分に強いわけではありません。世界のために今以上に何かをするならそれは徳の高いことだとは認めつつ、傑出した利他主義者ならもつはずの、高潔で卓越した「他者を思いやる心(caring)」を授からなかったのだから、自分にはそんなことはできないと私たちは考えます。
しかしこれは間違いです。傑出した利他主義者はひとより大きなケア・メーターをもつ人たちではなく、自分のケア・メーターを信頼しないよう学んできた人たちなのです。
私たちのケア・メーターは壊れています。数が大きくなるとうまく作動しません。世界的問題の規模をその大きさに忠実に表象することは誰にもできません。しかし他者を大事に思いたいという気持ちを感じられない(can’t feel the caring)としてもそのことは、他者を大事にする(do the caring)ことができないことを意味しません。
〔世界的問題に対して〕「大事に思う(care)」適切な量を体感することはないでしょう。残念ですが、世界的問題はただただ規模が大きく、あなたの体はこの規模の問題に適切に反応するようにはできていないのです。しかしそうしようと思えば、世界的問題をそのあるがままの大きさで扱っているかのように行為することはできます。自分の行為を導くのに自分の内にある感情に頼るのを止めて、手動運転に切り替えることができるのです。
6
もちろんこれは、「それでは何をすればいいのか」という問いにいきつきます。
しかも実は私も、まだ答えを知りません。(そうはいっても Giving What We Can pledge や GiveWell、MIRI、 The Future of Humanity Institute を喧伝するわけですが。)
その答えの少なくとも一部は、ある種の絶望感を感じる視点からもたらされると思います。世界を変えるべきだと考えるだけでは十分ではありません。「できれば世界で100番目に大きな問題を解決することに自分の全人生を捧げたい。しかしそれよりも大きな99の問題にまずは取り組まないといけないから、それもできない」という、このことを理解することでもたらされるような絶望感が必要です。
私は、あなたに罪悪感を植えつけて、もっと多くのお金を手放すように仕向けようとしているわけではありません。慈善家になるのは本当に本当に困難なことです。(もしあなたがすでに慈善家であるなら私はあなたのことを尊敬します。)第一に、お金を手にする必要がありますが、それは一般的なことではありませんし、さらにそのお金を、直接目で見ることのできない遠く離れた場所で起こる問題のために手放すのでなければなりませんが、これは人間の脳には決して簡単なことではありません。アクラシアは強敵です。そして最も重要な点ですが、罪悪感は長期的に見て、よい動機づけであるように思えません。あなたが世界を救う人びとの一団に加わりたいとしたら、むしろあなたには誇りをもってそうなって欲しいものです。目の前には多くの試練と困難が待ち受けているでしょうが、そうした試練や困難に立ち向かう際には、顔をあげて、堂々と立ち向かうべきでしょう。
7
勇敢さは恐れを知らないことではなく、恐ろしくとも正しいことを為せることです。
それと同じく、私たちの時代の大きな問題に取り組もうというとき、そうしたいと望む強い衝動を感じることは重要ではありません。内面にある衝動が、私たちの直面する問題の規模を捉え損なう場合でも、ともかくその問題に対処することが重要なのです。
ガンディーやマザー・テレサ、ネルソン・マンデラといった、特別に傑出した人々を見て、彼女たちは私たちよりも、他者を大事に思う強い気持ちをもっていたのだと結論付けるのは簡単です。しかし私には、それが正しいようには思えません。
誰もこうした問題の規模を把握するようにはなりません。掛け算を行うのが、もっとも正解に近づけるでしょう。私たちが大事に思う何かを見つけ、それに数値をつけ、掛け合わせるのです。それから自分の感情を信じるよりも、その数の方を信頼するのです。
それというのも、感情が私たちを欺くからです。
計算することで、世界的な貧困に取り組んで、より明るい未来を築くことには、現状よりも多くの資源を費やすに値することだと気づきます。私たちが為すべきことを為すためには、お金も、時間も努力も、この世界に十分にあるわけではありません。
残るはあなたと私、そしてともかく挑戦しようとしている他の人々くらいしかいません。
8
この世界の重みを実際に感じることはできません。人間の心にそのような芸当を為す力はありません。
それでもときどきは、この世界の重みを、数字の隙間から垣間見ることもできるのです。
以下で “care”はこの文章ではキーワードとして登場するものの、ひとつの日本語の単語でぴったり当てはまるものがありません。また「ケア」と訳すと「ケアの倫理」で用いられるケアの概念が想起されますが、伊勢田哲治(2008)『動物からの倫理学入門』(がネル・ノディングズ『ケアリング』を参照しつつ指摘するところ)によれば、ケアの倫理における「ケア」は、普遍性よりもケアする人とケアされる人のあいだの関係の特殊性を強調するとあり、本文での「ケア」の用法と必ずしも一致しません。というのもこの記事の著者は、このすぐ後に書かれている通り、自分自身が直接見ることのない膨大な量の動物や人びとを「care」することについて論じているからです。そこで以下で「care」は「気にかける」「(他者を)大事に思う」等々と文脈に応じて訳しわけるとともに、いちいち原語を表記することにします。
スコープ無反応性に関する記事はこちら(日本語)からお読みいただけます。
「黙って計算する(shut up and multiply)」はこの記事の著者である Nate Soares が属す Less Wrong の有名な概念です。「悪さをしているのは計算ではなく直観だと見分けられる場合には、黙って計算するスキルとは、〈期待効用計算はときに正しく、我々はそれを〔「直観的でない(intuitively unappealing)」と退けるのではなく〕受け入れる必要があると認める能力です。」(https://www.lesswrong.com/tag/shut-up-and-multiply )