私がおそらく長期主義者でない理由

This is a Japanese translation of “Why I am probably not a longtermist

by Denise_Melchin 24th Sep 2021

要約:私は、長い未来とか壮大な未来とかよりも、良い未来を実現することに大きな関心があります。今の世界が素晴らしいとも思っていませんし、将来そうなるとも思っていません。私たちが近い将来に回避したり、形作ったりしうるシナリオの中で、少なくとも今くらい悪い世界に私たちを閉じ込めてしまうようなシナリオがあるのかどうかについては、不確かであると思っています。もしそんなシナリオはないというのであれば、「伝統的な近未来主義」的なやり方で世界を改善する方法に焦点を当てる方が良いと思います。

長期主義はEAコミュニティ内にいる多くの人にとって重要事項なので、私が長期的な視点にあまり乗り気になれないことは、他のEAメンバーにとって興味深いことかもしれないと思っています。

この記事では、長期主義と呼ばれる世界観について記述します。課題領域の優先順位付けに関する立場を説明するものではありません。一般的に長期主義と関連付けられる課題領域が、非長期主義的な検討のもとで重要とされることは大いにあり得ます。

この投稿は、私の考えの核心となる要素ごとに構成し、どのような根拠や論証があれば私が間違っていると説得できるかを強調しています。私が見逃してしまったかもしれない論拠があれば、ぜひ聞かせいただきたいと思っています!普段、私は自分の核心となるものを徹底的に調査することはありませんでした。したがって、「おそらく」長期主義者ではない、とだけ言わせてください。

長期的な未来の質

1. 功利主義に納得できない部分が多い

長期主義者であるために功利主義者である必要はありません。しかし、あなたが完全な功利主義者と、どの時点で、どのように違うかによって、おそらく長期主義に「全面的に」傾くことはなくなると思います。

私が非常に重視しているのは、世界を良い状態で将来世代に引き渡すことです。また、いつ実現するかにかかわらず、人々が幸福な状態であることも大切にしています。私が完全な功利主義者ほど重視していないのは、私たちの介入がなければ存在しないであろう幸せな人を存在させるように介入することです。つまり、人類があまり繁栄せず、星々に広がっていくことができなくても、私にとっては大問題ではありません。幸せな人々を生み出すことには価値がありますが、不幸な人をなくすことに比べれば、はるかに価値が低いと私は考えています。したがって、絶滅のリスクによって失われる人類の可能性を極端に危惧することはしません(ただし、短期的な影響は非常に気にしています)。このことは、未来をどれだけ良くて、どれだけ長いものと予見できるかにもよります(下記参照)。

何があれば私をそうではないと納得させられるか

私にとっては自分の価値観を追求することも大事ですが、他の人の価値観が反映されたものを確実に実行したいとも考えています。例えば、長期的に人口を増やすことを世界中の多くの人が真剣に気にかけていることが分かれば、私もその優先順位をもっと上げるでしょう。とはいえ、私の興味は、個人の好みの合計よりも、さまざまな集団の好みにやや向いています。これは、ある集団が他の集団を凌駕したり、帝国主義的なやり方で自分たちの価値観を広めたりすることを奨励しないように、より希少な世界観に重きを置くためです。

また、最も苦しんでいる人たちの価値観をより重視したいと思います。もし最も苦しんでいる人々が、今の苦しみよりも長期的な未来を優先させる価値があると考えているなら、私はそのことを真摯に受け止めるつもりです。

あるいは、道徳的実在論とその枠組みでの功利主義の正しさの両方で私を納得させることも有効な手でかもしれません。今のところ、なぜ道徳的実在論が理にかなっているかを平易な言葉で説明したものを見たことはないですが、もしそんなものが存在するならば、私の考えを変える良いきっかけになるでしょう。

もし世界が突然劇的に良くなって、全ての人が今の私と同じくらい質の良い生活を送れるようになったら、私は現代の人々の生活をより良くする代わりに、壮大で長い将来を実現することに喜んで注力すると思います。

2. 人類が本質的に最高に素晴らしい存在だとは思えない

長期主義的世界観の多くで頻繁に見られる題目は、人類は素晴らしく、それゆえ長く存在すべきだというものです。私は自分が人間嫌いだとは思っていませんし、私の考え方はヨーロッパ人の平均的なものだと思います。人類には多くの素晴らしい側面があり、それが繁栄するのを見たいと思っています。

しかし、ほとんどの長期主義者が持ちあわせるような人類へのあからさまな熱意には、戸惑いを覚えています。現在でも、人類は大量虐殺を行い、何百万人もの人々を飢えで死なせ、他者や何十億もの畜産動物を奴隷のように扱い、拷問している。この事実は、「人類は素晴らしい」という世界観と調和しがたいように思えます。

これに対する一般的な反論は、「これらは問題だが、まだ解決に至っていないだけだ」というものでしょう。人間は怠け者であって、悪人ではない、というわけです。この反論では私を屈服させることはできません。私は、人々が良い人生を送ることだけでなく、良い人間であることも大切に思っています。怠惰は言い訳にならないのです。

今の私たちにできることはもっとあります。しかし、たいていの場合、私たちは何もしないのです。GiveWellが推奨する慈善団体のことを聞いても、自分の収入のうち相当な額を寄付しようと思う人はほとんどいません。気候変動について知っているにもかかわらず、人々は観光目的で大陸間を横断する飛行機を使います。工場式農場の状況を耳にしことがあるにもかかわらず、多くの人は肉を食べます。ほとんどの先進国の予算における、世界的な援助が占める割合はごくわずかです。これらの例はかなり国際的なものですが、私はそのことが致命的だとは思いません。

一つずつ見ていくと、これらの例に難癖をつけることはできるでしょう。時には、実際に情報が不足していることもあります。経験則に基づく意見の相違がおきたり、異なる道徳観(例:動物に知覚力が備わっているとみなすかどうか)を持っていたりすることもあります。時には物事の選別を行い、他の方法でよいことを行うことを優先させることもあります。これらの理由は全て、しょうがないと思います。

しかし、結局のところ、より良いことをするためのリソースを十分に保有している人はたくさんいるにもかかわらず、莫大な問題が残っているように思います。確かに、不幸を減らすために今後より良い制度を整え、人々がより良く行動するために適切な飴と鞭を用意できれば素晴らしいでしょう。しかし、これらがないとうまく振舞えないような人類には、気乗りしません。

このことから私は、人を助けることが良いことである、ということを重視するのは、人助けがいつ起こるかに関わらず消極的です。これは、未来の人々が現在の人々と同じくらい道徳的に価値がある場合にのみ当てはまります。

言い方を変えれば、もし人間が本当に偉大であれば、未来へのリスクについて心配する必要はないでしょう。自身で解決するでしょうから。

何があれば私をそうではないと納得させられるか

私のいるこの時代、この地域の人がどれほど道徳的であるかについて、私の考えが間違っていたら非常に嬉しく思うでしょう。これは私が見ている世界とは正反対のように思えるので、もっともらしい根拠を思いつくのは難しいでしょう。例えば、Our World in Dataのマックス・ローザーが考えているように、本当に情報不足が理由で人々がより良く行動することが妨げられているのかもしれません。大きな効果をもたらす情報キャンペーンの実例があれば、かなり説得力があると思います。

他の場所や時代において、人々が道徳的な義務をどれほど真剣に受け止めているのか、私はよく知りません。もしかしたら、私が見ている投資の欠如は、局所的な異常事態なのかもしれません。

このことは私の世界観には影響しないはずではありますが、長期主義コミュニティ内で、(道徳的に)より優れた人を生み出すことを目的とした社会工学や医学工学にもっと焦点が当たることがあれば、私はおそらく長期主義的な考え方をより心地よく感じることでしょう。

3. 未来が今日よりも良くなるか確信が持てない

多くの点で、世界はずいぶん良くなっています。極端な貧困は減り、平均寿命は伸びています。奴隷のような扱いを受ける人も少なくなっています。私は、こうした好ましい傾向が今後も続くと楽観視しています。

しかし、このような傾向がどれだけのことを物語っているかについては、懐疑的な見方をしています。飢餓や若死にする人が減ることは良いことだという点では、おそらくほとんどの人が同意するでしょう。しかし、長期主義者が称賛するトレンドの中にも、例えば宗教心の低下など、人によっては異なる印象を受けるものはたくさんあります。また、異なる側面に重きを置くこともできます。工場で飼育されている動物の生を重んじる人からすれば、世界が良くなったとは思えないかもしれません。

世界が良くなっているとみなすのは、かなり珍しい価値観を持った世界観に依拠しているからではないかという懸念もあります。ハイトの道徳基盤理論のレンズを使ってみると、改善のほとんどはケア/​危害の基盤においてであり、忠誠/​背信や神聖/​堕落といった他の道徳基盤によれば、世界は改善されていないと捉えることもできるのです。

また、世界の進歩の多くは、その影響がマイナスになる前に落ち着くと推測しますが、そうでないものもあるではないかと危惧しています。例えば、快楽主義や個人主義の高まりはどちらも良い力学だと思いますが、それらが行き過ぎると世の中を悪くしてしまうでしょう。そして、私たちはもうすぐ、あるいはすでにその域に到達しているように思います。

一般的に、狭い範囲で最適化しすぎることによって、本来の良い目的を通し越して、行き過ぎてしまう傾向を懸念しています。利益のための最適化は、その顕著な例です。これについては、ここでもう少し詳しく書いています。

もし今の世の中が過去の世の中よりも良くなっていないのなら、さらに良い未来を期待するような推定はうまくいかないでしょう。このことは、私が長い未来や壮大な未来ではなく、良い未来を希望する論拠の一つになっています。

関連事項として、この主張は私を長期主義から遠ざけるものではありませんが、一部の長期主義者は私が無価値と考える未来(例:ヘドニウム・ショックウェーブ[1])を期待しており、私の気を削いでいるのも事実です。文化的にも、多くの長期主義者は、私が望む以上に快楽主義、個人主義、テクノユートピア思想を好んでいるようです。

何があれば私をそうではないと納得させられるか

世界がどのように変化してきたかという単純な事実を取り違えているために、未来に対して悲観的になっている人が多くいることを十分に認識しています。しかし、私は、世界観の違いによって、世界が良くなっている、あるいは良くなっていないという見方がどのように変わるのかについてもっと知りたいと思っています。

長期的な未来の長さ

未来が非常に長くなる可能性があるという主張には説得力を感じません。少なくともソフトな全体主義がなければ、このようなことが可能になるとは思えません。もっとも、全体主義的な政策の施工には、未来の価値を低下させるリスクが伴います。

別の見方をすれば、存亡リスクについて研究している人たちは、存亡リスクはかなり大きいのだと私を納得させるのに何年も費やしたわけです。存亡リスクに取り組むことを訴える主張から、長期主義に切り替えようとすると、存亡においては心配しなくて良いレベルに到達していることが必須条件となるわけで、まるでむち打ちのような感覚を覚えます。

このトピックについては、こちらの短い投稿もご覧ください。そこで挙げられているのは、リンディー・ルールというもので、自己増殖する系は何十億年も存在しているのだから、同等の長さの未来を期待できると指摘しています。しかし、なぜ基準となるものが自己増殖する系になっているのか、私には理解できません。私はただ、リンディ・ルールを道徳的に価値のある人類の文明に適用することに興味があるのですが、人類の文明を自己増殖する系の長さと比べるとかなり短くなると思います。

また、小さな確率の評価が不確かで、期待値が主な論拠となるような(「クラスター思考」に基づくアプローチとは対照的な)大まかな期待値計算に基づいて意思決定を行うことにも反対です。このような判断に原理的に反対しているわけではありませんが、私自身はこのような判断を行いうまく行った実績に非常に乏しいのです。より具体的に言えば、封筒裏の計算(フェルミ推定)で予測された期待値が現実のものとなることがないのです。

また、非常に大きな文明の潜在的に確率が低いことを優先するために、伝統的なパスカルのパスカルの路上強盗」といった類の懸念が生じます。

何があれば私をそうではないと納得させられるか

人類が存亡面において安全な状態に到達する方法についての、確かな議論を歓迎いたします。

長期的な未来に影響を及ぼす能力

私は、人が100年(から300年)以上先の未来に放散していくようなプラスの影響を確実に与えることができるとは思っていません。しかし、1つだけ重要な例外があります。それは、この時間枠の中で「ロックイン」シナリオを阻止したり、形成したりする能力を人間が持ち合わせているケースです。ロックインとは、人類が決して逃れることのできないものを意味します。例えば、絶滅のリスクや、文明の永久的な崩壊などがそれにあたります。

ボストロムの「存亡リスク」の正統的な定義には、こうしたロックインのシナリオも含まれていることは承知していますが、私が無関係と考えるシナリオ(トランスヒューマニズムの未来に到達できない)も含まれているので、この項ではこの用語を使わないことにします。

数十年以上のスケールで世界に確実にインパクトを与えることは不可能であることを考慮すると、「組織的な意思決定の改善」といったような課題領域に取り組むことに、その時間枠の中でロックインを形作ったり、阻止したりする可能性以外の点においては、魅力を感じません。

また、私は、現在の世界と同じかそれ以上に悪い、あるいはあまり良くないであろうロックインのシナリオにのみ興味があります。人間が一日中Netflixを見るだけの未来を防ぐことには興味がありません。それはかなり残念な未来ではありますが、少なくとも、人々が日常的に餓死する世界よりはましでしょう。

現時点では、多様で深刻なロックインのシナリオが起きる確率を十分に知らないため、それらを重視することが私の世界観において正当化されるべきであるかは判断できません。もし、このことがさらに調査されて、正当化されるべきだと判明すれば、私の世界観を長期主義と表現することもありえるかもしれませんが、それでも、他の長期主義者との間に文化的な断絶を感じることにはなると思います。

もし、今後数十年の間に、深刻なロックインのシナリオを回避したり、形成したりする選択肢がないのであれば、「伝統的な近未来主義」のアプローチで世界を改善することがベストだと思います。この点については、アレクサンダー・バーガーがこの80,000 Hoursのポッドキャストで述べていること非常によく似ています。

何があれば私をそうではないと納得させられるか

もし、ある時点から数百年後の未来に意図的にインパクトを与えた成功例があるのなら、ぜひそのことについて教えていただければと思います。このトピックに関するカールのブログ記事は存じ上げています。

近々、時間を費やしてこの要点について調べたいと思っています。もし、私たちが回避したり、形成したりしうる深刻なロックインのシナリオが目前に迫っているならば、それはおそらく長期主義に対する私の感情を変えるでしょう。

これが私の考えの重要な核心をなしていることを踏まえると、私が自分の世界観についてこの時点で結論を出すのは時期尚早だと考える人もいるかもしれません。しかし、私の考え方は、私が耳にするたいていの長期主義者の考え方とは十分に異なっているように思われるので、時期尚早と思われるかもしれませんが、それでもなお記述しておく価値があると考えました。

もし、私の考えを変えるような資料をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひお教えいただきたいと思います。

この記事の草稿にコメントを寄せてくださったAGBさんとLinch Zhangさんに感謝します。

  1. ^

    ヘドニウム (hedonium) とは、快楽を生成するのに最適化された仮想的な物質である。快楽主義的な功利主義の観点からは、宇宙をヘドニウムで満たすことが理想的な状態であると考えられており、ヘドニウムが地球を中心として、時間の終わりまで絶え間なく広がり続けるという壮大なビジョンが存在する。このプロセスは、ヘドニウム・ショックウェーブと呼ばれることもある。(参照

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