『Precipice』第二章【存亡リスク】

This is a Japanese translation of “The Precipice (To read: Chapter 2)

日本語版、Introduction to Effective Altruismの日本語教材の一部として、著者に特別に許可をいただき、『The Precipice』の日本語訳を行いました。著者・本の詳細についてはこちら、原著はこちらよりご購入いただけます。

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Existential Risk

道徳的存在である私たちが果たすべき極めて重要な役割とは、何世代にもわたって存続されていく共同体として、前後を確かめ、現在に照らし合わせ歴史を紐解き、過去に起きた出来事が未来を形成していくことを理解し、家族、国家、文化、伝統の継承者の一人であるという自覚を持つことである。

アネット・バイアー

前章では、どのようにして私たちは他に類を見ないほどに重大な時点に立たされることになったのか──どのようにして人類の未来の全てが宙づり状態の時代が到来したのか──人類の長い歴史に経緯を見てきた。また、重大なリスクを克服した先の未来には、どのようなことを待ち望むことができるかということについても少し触れてきた。

ここからは一体何が危機に瀕しているのか深く考えていきたいと思う。なぜこの時代に人類の生存を守ることがそれほど重要なのか。それにはまず「存亡リスク」の概念を明らかにしておかなければならない。「存亡リスク」とはそもそも何であるか。より一般的な「種の全滅」や「文明崩壊」といった考えとどんな関係があるのだろうか。

そして、なぜ他の緊急を要する問題がある中で、これらのリスクと向き合うことが大事なのかその理由を考えていきたい。最大の理由は、人類の未来を失ってしまうことだと思っている。それは人類に与えられたまたとない機会──最大の自己の実現に挑み、また可能な限りの人類としての偉業を成し遂げる機会──を永遠に失ってしまうことである。それだけではない。未来を守ることが正しい行為であることは、幅広い道徳的教えや道徳基盤により支持されている。存亡リスクは現在を脅かし、過去を欺くものである。存亡リスクにより、私たちの文明的長所は試されている。存亡リスクによって、宇宙で最も複雑で重大な役割を果たしている可能性のあるものは取り除かれようとしているのである。

これらのことと真剣に向き合えばこそ、人類の未来を守るためにするべきことの多くが見えてくる。政治界、学術界、市民社会のどこを見渡しても、存亡リスクは大いに見過ごされている。なぜそのような状況にあるのか、またこの状況が今後変わっていくと考える理由について説明していきたい。

存亡リスクを理解する

人類の未来は可能性に満ちている。自分たちの暮らす地球について深く理解し、先祖が夢見るほどの健康と繁栄を享受している。地球を飛び出し宇宙を探索したり、先祖の理解の域を超えるような仮想空間を創り出したりしている。人類が実現し得るものの限界は見当たらない。

人類が絶滅すれば、未来は閉ざされる。人類の可能性は消失する。可能性は全て消え去り、人間の繁栄しない世だけが寂しく残される。人類が滅びれば世界は失敗し、その状態は永遠に固定化される。二度と後戻りはできない。

哲学者のニック・ボストロムは、人類絶滅だけがこのような結末をもたらすのではないことを示している。他にも、人類が現在のみならず、全ての将来の可能性を失う壊滅的結末が考えられるというのだ。

例として荒廃した世の中について考えてみよう。大災害(または大事件)が起き、それにより地球規模で文明が崩壊し、人類は農耕以前の文明へと衰退してしまった。大惨事により、地球環境も深刻な被害を受け、生き残った人間で文明を再建することは不可能になった。このようなことが起きた場合、人類は絶滅しないが、ほとんどそれと似た影響を将来に及ぼすことが考えられる。現在大きく開けている人類の未来は、選択肢がほとんど奪われた狭いちっぽけなものへと変わり果てる。もう後戻りはできず、人類はこの破綻した世界に生きていくしかなくなる。

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また、完全に鎖につながれた世の中についても想定してみよう。例えば、ジョージ・オーウェル著の『1984年』を彷彿させる未来だ。永続を企む暴虐的な全体主義国家によって全世界が支配されてしまう。技術的に仕込まれた強力な洗脳、監視、強制により、反体制派が蜂起することはおろか、ごく一握りの反体制者がお互いを探し出すことすらできなくなった。世界のあちらこちらがこのように統治されているため、内外の脅威は制御され、政権は安定している。このような支配体制が永遠に続くのであれば、全体主義への転落は人類絶滅とほぼ同意義である。将来の可能性は著しく閉ざされ、出口が見つからない。

ボストロムに従い、私もこれらを存亡的破局と呼ぶこととし、それぞれ以下のように定義する。

存亡的破局(Existential catastrophe)とは、人類の長期的な可能性が破壊されること。

存亡リスク(Existential risk)とは人類の長期的可能性を破壊する恐れのあるリスク。

これらの定義は、存亡的破局によってもたらされる結果は悲惨であり、且つ取り返しがつかないということを示している。人類が持つ可能性を発揮できないばかりか、人類の持つ可能性そのものが永久に破壊される。定義の説明は簡潔にとどめておきたいところだが、明確にするために注意事項を伝えさせてもらう。

まず、人類の長期的可能性とは、現実に起こり得るあらゆる未来の形だと私は思っている。これは可能性の概念を拡張した考え方であり、人類がいずれ達成できるであろう(たとえそれを実現する手段がまだ発明されていなくても)全ての物事を含む。しかし、我々の選択により物事を固定化させ、すべての可能性が閉ざされるという結果も起こり得る。このような事態に陥れば、そこから新たな可能性が生まれることはない。だから、人類の可能性が減少するようなことがあれば、それは永久的に続くものだと理解するべきだ。現在を生きる私たちの課題とは、人類の広大な可能性を保持し、そして未来を破壊する脅威から保護することである。その究極の目的は、人類は最高の未来を歩むことができることを認識し、人類の可能性を十分に発揮するための機会を子孫に与えることである。

この規模だとやや抽象的に聞こえるかもしれないが、実はとても身近な考え方である。例えば、子どもは長期的な可能性を持っている。素晴らしい人生を送る道が開けている。その可能性が失われないように守っていくことは大切であり、事故やトラウマ、教育の不足により道が遮られてはならない。彼女の将来を守ること、つまり可能性の消失が極めて起こりにくいように安全策を講じることが重要なのだ。また、子どもの可能性を最大限発揮することも重要であることから、そのための人生の選択をしていく。人類の歩むべき道にも同じことが言える。

存亡リスクは人類の将来的な可能性を破壊する危険を孕んでいる。人類絶滅のような完全破壊の危険もあれば、完全破壊に近い、永久的な文明の衰退などの危険も考えられる。後者の場合、ささいな繁栄やごくわずかな回復の可能性は残されているが、この点においては厳密に扱う必要はない。とにかく存亡的破局を迎えた後は、人類の将来的可能性は失われ、ほとんど残らないと解釈されるべきである。

次に、「人類」に焦点を当てる意図として、これは私たちを取り巻く環境やその他動物、ホモ・サピエンスの後継者、宇宙のどこかに暮らす生き物たちの存在を除外しようとするものでは決してない。私は人間のみが存在に値すると考えているわけではない。むしろ、私たちの知る限り、人間は善悪の判断したり討論したりする唯一の存在であるが故に──他の生き物になり代わって、人間は世の中を俯瞰し、最善の行動を決定する立場にあるが故にこのような切り口に立ったのである。人間が破滅に向えば、それは最良で適切な結果へと導いていく推進力がこの世から消失することを意味する。

人類の可能性とは、一人一人すべての人間の行動が合わさった結果、達せられる物事を指す。人間の行動の価値とは、人間に対する行動、人間のための行動という観点から生じるが、人間以外の生き物への影響も考えなくてはならない。もし将来、人類が道徳的判断する何らかの主体を生み出すことになれば、私の「人類」の定義に、それらの存在が含まれることになるだろう。

私が注目するのは人類全体への脅威であり、一国や一文化に対する脅威は「存亡リスク」とは呼ばない。「この国に対する存亡的脅威」などという似た表現を耳にするが、これらの主張の多くが誇張であることはさておき──これも似た考え(国や文化の長期的可能性が永久に破壊されること)を提示してはいる。しかし、「存亡リスク」に関する話は、(特定の集団に限定することなく)人類全体にかかる脅威を指す場合にのみ適用していくことがとても重要だ。

三つ目に、リスクを認識するにあたり、その確率の議論は避けては通れない。存亡リスクについてはどうだろうか。人類が滅びる確率を長期間の客観的な発生頻度として理解しようとしてもうまくいかない。ここで議論となっている、存亡的破局とは、一度起きてしまえばそれで最後、また実際にそれを経験するまで(その瞬間にはもはや手遅れである)、未だかつて起きたことのない出来事だからだ。だが、まだ起きたことのない事象だからという理由で、存亡的破局の確率が全くのゼロであると導くことも誤りである。

このような状況においては、証拠に基づいた確率が要求される。つまりそれは、ある限りの情報をもとに、適切な範囲で確率を予測したものである。このような確率は法廷、銀行、ギャンブルなどで応用されている。本書では、存亡的破局が起こる確率について言及する際、それは知り得る限りの最良の根拠に基づいた予測可能な範囲の確率を指す。

存亡的破局の定義に当てはまらないとしても、多くの悲惨な結果が想像できる。

たとえ人類を崖っぷちに追い詰める決定的な出来事が起こらなくとも、より規模の小さい出来事が幾度と重なり、悲惨な結果がもたらされることもある。なぜこのようなことについて触れるのかというと、私は大惨事に言及する際、それは複数の出来事の組み合わせというよりむしろ、一つの決定的な出来事によって引き起こされるものだと考えているからだ。だが、人類が互いを傷つけ合ったり、世の中のためになる善行を一切行うことなく将来の時間を浪費すれば、酷い未来がやってくるかもしれない。ただそれが大惨事により引き起こされた結果でなかったというだけだ。

また、決定的大惨事が起きた後にも、人類がやがて回復を遂げる可能性があるかもしれない。現代から数世代先を想像すると、これでも十分悲惨な出来事だと思わずにはいられないだろう。だがこれを千年単位で考えてみると、人類史の中の暗黒の時代の一つのように思えてくるかもしれない。だが、本当の意味での「存亡的破局」とは、人類が自らの存続に失敗した決定的な瞬間を指す。

大惨事と呼べる規模の何かが起き、文明が崩壊される事態に至ったとしても、「存亡的破局」の域には及ばないことも考えられる。「世界の終わり」などと人々は口にするかもしれない。だが、世界的文明の崩壊が必ずしも人類の終わりだとは限らないのだ。その運命はとてつもなく過酷なものであるに違いないが、完全に取り返しがつかなかったり、永遠に状況が変わらなかったりする訳ではないかもしれない。

本書では、文明の崩壊を直接的に、言葉の意味通り用いる。それは(少なくとも一時的に)地球上の人類の文明が失われ、人類が農耕時代以前の生活へと退化することを指す。なお、「文明の崩壊」は、重度の秩序崩壊や技術の喪失、文化の終焉など、広義に用いられることも多い。しかし、ここで私が意味するのは、文字や都市、法律、その他文明を象徴する物事が消失した後の世の中のことである。

これはとてつもなく過酷な災難であり、そのような災いが引き起こされることもまた非常に考え難い。歴史的にも数々の困難に遭遇しながらも、文明の崩壊は人類史上一度も起きておらず、大陸規模の崩壊ですら未だかつて起きたことがない。ヨーロッパでは黒死病により人口の20〜50%もが失われる出来事が起きたが、人々は生き延び、文明は堅く維持された。この事実によると、文明崩壊の引き金となるには、世界各地で致死率が50%を上回ることが条件になると思われる。

また、文明が本当に崩壊したとしても、再建できると考える方がもっともらしい。周知のように、独立した集団によって、これまで少なくとも7つの文明が起こされている。資源が枯渇してしまえば、文明の再建はますます困難になると思われるのだが、実際は、以前よりずっと難易度が落ちているという見方が有力だ。大惨事が人類絶滅に及ばない規模であった場合、家畜や農作物、廃墟に眠る豊富な資源は残された状態であることが考えられることから、生き残った人々が古いレールを活用すれば、一から鉄を精錬するよりも楽な仕事で済む。消費型の資源についても、放棄された備蓄や採鉱場から石炭を入手すれば、18世紀の頃のような労力はかからない。文明を起こすことができる証や、文明の再建に役立つ道具や知識も、世界中あちらこちらに残されていることだろう。

しかしながら、文明崩壊と存亡リスクは二つの点で深い繋がりを持っている。一つ目に、文明崩壊後、回復できない事態に至った場合、それは存亡的破局だと見なすことができる。例えば、極度の気候変動や人為的な伝染病の影響下、地球が荒廃し、人間が点在し食料を求めさまようばかりとなってしまった事態が例として挙げられる。二つ目に、世界的な文明崩壊が起きた場合、人類の全滅のリスクは高まる。文明崩壊により脆弱化した人類は、後の災難に大きな被害を受けやすくなってしまう。

文明崩壊が人類絶滅を招く過程として一つ考えられるのは、生き残った最大の集団が最小存続可能個体数(絶滅することなく存続できる個体数)を下回った場合である。あくまで確率的な議論であり、こと細かな条件(生き残った集団が地球のどこにいるのか、その時に利用できるテクノロジーには何があるのか、何による被害なのか)によって数値が変化するため、絶対的な答えは存在しない。推定にも何百人〜数万人というように幅がある。もし大惨事による打撃で人口がこれらを下回るような事態に陥れば、それは修復不能な文明崩壊というより、直に人類絶滅をもらたす惨事と見なすべきだろう。また、種の絶滅はおそらくこのようにして起きるのではないかと私は想定している。

人類の全体の可能性を脅かすリスクについて、私たちが真剣に考えることは滅多にない。一番身近なのは、(視聴者の反応はだいぶ鈍くなってきているとはいえ)視聴者を引き込むための大げさな演出たっぷりのアクション映画だろうか。または、主に読者をぞくぞくさせる目的で仕込まれた「世界が終わる10つの筋書き」オンラインリストだろうか。冷戦終結以降、人類が終わりを迎えることが私たちや私たちの文化、人類全体にとってどんな意味を持つのか、世界のリーダーが真剣に議論を交わす姿を見ることはなくなった。公式な場以外でも、人々は人類滅亡の可能性について冗談を飛ばすくらいだ。

しかし、その危機が真のものであると知ったとき──数十億人の命、および将来の世代すべての人の命が懸かっていることを認識したとき──人類の長期的な可能性を守ることに反論する人はほとんどいないはずだ。もし巨大小惑星が地球に接近していることが判明して、10%を超える確率で今世紀後半に人類が滅亡するとしたら、衝突回避のためのシステムを構築のために最大限の努力をするのか、それとも問題を無視し危険を背負うのか、わざわざ議論する必要はない。むしろこの脅威に至急対応することが必然的に世界の最優先課題となる。したがって、このような脅威に人々が無関心であるのは、脅威の大きさを真剣に疑っているというよりも、そのような脅威があることをまだ信じていないことに関わっている。

とはいえ、人類滅亡が重要であるという理由について、少し時間をかけて検証するべきではないだろうか。そのような理解を深めることは、やる気や行動力を奮い立たせるという点において重要である。また、新たな検討事項を見つけたり、優先順位を決めたりすることの助けとなる。

存亡リスクと現在

存亡的破局が起こった末、すべての場合において人類が全滅するとは限らない。また人類絶滅が起こる過程についても、痛みや早すぎる死を伴わないことも可能である。例えば、単に子どもを作らないと決めれば、それは理論上起こり得る。人類の可能性は、苦しむことなく(と仮定して)失われることになる。しかし私たちが直面している存亡リスクとは、それほど平穏なものではない。むしろほとんどの人の道徳的基準から見て明らかに恐ろしいと思えるものである。

もしも、今後百年の間に、核の冬、人為的パンデミック、または最新技術が導入された壊滅的戦争のいずれかによって人類が滅ぼされたら、それは70億人の早死を意味する。恐らくあなた自身やあなたの愛する人の命もその中に含まれるだろう。多くの人が、餓え、あるいは焼け死に、あるいは重病を患い、精神的・肉体的に苦しみながら死んでいく。

このような恐怖を回避するために道徳的議論を展開させる必要はない。人類はこれまでにも、何千人、何百万人という命が奪われる惨事を経験してきた。このような悲惨な結果を防ぐための努力が極めて重要であることをわかっている。だが、失われるものの大きさのあまり、私たちはそのことの大きさをはっきりと感じられなくなってしまう。それでも、数を道徳的判断の参考にすることができる。他の条件が同じであれば、百万人の死は、何千人の死よりはるかに悪く、何十億人の死は、百万人の死よりはるかに悪い。失われる命の数だけを考えてみても、人類の長い歴史の中で最悪の出来事となるだろう。

存亡リスクと未来

存亡的破局を迎えるということは、おびただしい数の人命が犠牲になるばかりでない。人類の未来の可能性さえもが奪われることを指す。

私の良き指導者であるデレク・パーフィットは、壊滅的な核戦争によって、世界人口の99%が命を落とした場合どうなってしまうのか想像するよう私たちに言った。その戦争は何世紀にも及ぶ暗黒の時代をもたらし、生き残った人々はやがて文明をかつての高みまで再建することができた──。どん底へおとしめられ、傷を負いながらも、人々は屈しなかった。

次に、また別の戦争によって人類が全滅した場合と比べる。人類が全滅する後者の戦争が悪いことは明白だろう。だが、実際どれほど悪いと言うことができよう?どちらの戦争も起きてしまえば、歴史上最悪の惨事となることは間違いない。どちらの戦争でも何十億単位の死者が出る。人類全滅に至れば、さらに数千万の人が犠牲となるため、その意味で後者の方がより悪いと言える。しかし、この両者の間には決定的な違いがある。どちらの戦争でも数十億人の死者が出る。だが、後者では人類そのものが消え失せる。どちらの戦争でも現在は消し去られる。だが、後者の戦争では、人類の未来が失われる。

残り数パーセントの人類が消失することにより失われる物事の性質の差が、人類絶滅という危機を比類ないものとし、そのリスクを低減することも他と比べようのないほど重大さを持っている。

期待値では、この世にいつか生を受ける人間の大半はまだ生まれていないことになる。人類を滅ぼす大惨事が起こらなければ、人類のほとんどは将来の世代ということになる。このことを作家のジョナサン・シェルは次のように表現した。

人類が存続する時間は、現在よりずっと遠く私たちの視線の及ばないはるか彼方までつづいている。このように果てしなく続く人類の歴史は、現在までの地球の歴史より長く、それに比べると文明社会が誕生してからの時間はほんの一瞬にも満たないほどだ。それなのに私たちは一時的な目標と誤りがちな信念の下、この広大な未来を消し去ろうとしているのである。もし人類が自らを破滅させれば、それは、揺り籠の中で死ぬこと──つまり乳児の死と同じである。

また、(人類に未来があるのなら)期待値では、人類の存続する時間はほぼ未来のものであるという前提に立っていることが考えられるため、ほとんどの価値は未来に存在していることとなる──繁栄。美しさ。最も素晴らしい偉業。最も公正な社会。最も驚異的な発見──これらのほとんどを未来に期待できる。人類は繁栄、健康、公正、自由、道徳的考えの領域でさらなる成果を積み上げていくことができる。幸福と繁栄に満ちた、私たちの想像の域を超えるほどの理想的な社会を築き上げることができる。恐ろしい危機から、この世界を守ることができれば、百万世紀先までも人類は存続していくことが可能となる。これこそが人類の持つ可能性である──”危機の瀬戸際”を乗り越え、より良い世界を築こうと励み続ければ、達成できるものである。

このような視点に立って将来について考えると、人類の広大な可能性が貴くかけがえのないものに思われ、これが私にとって、存亡リスクの低減に全力を注ぐ一番の理由となっている。まだ姿見ぬ将来の百万世代の人々を思うと、人類の将来を守ることの重要性をはっきりと認識できる。現在しか享受できない利益のために、この貴い未来を脅かす行為は、非常に偏狭で短絡的だと考える。それは、壮大な人類の物語の流れを無視して、自分たちの生きる時代だけを特別視する行為である。この先誕生する圧倒数の人間を置き去りにし、ごく一握りの人間を優遇する行為である。まだ来ぬ百万世紀後、十億世紀後という未来を差し置いて、今世紀を特別扱いする行為である。

なぜこのような行為が誤りだと言えるのかを考えるために、距離をもとにして類推してみる。人々の存在価値は距離を隔てても変わることはない。例えば、私の妻が自宅を離れ、ケニアで会議に出席している間に病気にかかったとしよう。私が妻を気掛かりに思う気持ちは、妻がオックスフォードの我が家で病気になった場合と変わらない。ケニアの見知らぬ人々の安泰も、オックスフォードに暮らす見知らぬ人々の安泰も、同じくらい重要なのだ。無論、家族や同地域に暮らす人々など特定の個人に対して特別な義務があるということもある。だが、物理的距離そのものによって、その義務が生じている訳ではない。全ての人間が人として等しく尊い存在であり、地理的位置に関係なく尊重すべきであるということを受け入れることは、道徳的発達の重要な過程であり、この考えを政策や慈善活動に取り入れるために私たちにはできることがもっとあるはずだ。

これは異なる時代に生きる人にも、同じことが言える。現代を生きる人々の命は、何千年前を生きた人々、何千年先を生きる人々の命と等しく貴い。遠く離れた場所にいる人々の存在を軽んじることが誤りであるように、生きる時代が異なっていることが、存在を軽視する理由にはならない。時代が変わっても、人々の幸せの価値や苦しみの悲惨さは変わらないものなのである。

どの時代に生きる人々も平等に気にかけるべき存在であるということを自覚を持つことは、人類の道徳的進歩において重要なステップである。多くの人々は既にこのような公平性に気づき始めている。私たちは、私たちの利益が少なくなるからという理由で、将来の世代の暮らしを貧窮させることは間違った行為だということをわかっている。尋ねられれば、将来の世代も現代の世代と同じように大事だということに人々は賛成するだろう。しかし、それでも私たちの優先順位を大きく変える必要がないと思っている。例えば、私たちの選択が及ぼす長期的影響はすぐに解消されるだろうと思ったり、長期的影響は見通すことができない為、良い行動をとれば悪い行いを帳消しにできるだろうと考えたり、未来に生きる人々は今よりも良い境遇にあり、彼ら自身でうまくやっていけるだろうと思ったりするのである。

しかし、私たちの世代に存亡リスクを回避できる可能性があるということはつまり、いくつかの問題領域において、私たちの行動が長期的な未来全体に良い影響を与えることができるということであり、このような立場にあるのは、私たち現世代だけなのである。このことから、将来の世代と現代に生きる私たちが同等に大事な存在であるという見方は深く実践的な意味を持つ。だが人間がこの考え方を会得するまでには、まだまだ長い道のりが残されている。

このような考えを巡らせることは長期主義(longtermism)と呼ぶべき倫理観で、自らの行動により、長期的未来にどのような影響を与えることができるかということを大きな関心事としている。私たちの世代は長く続く物語の一ページに過ぎないという事実を真剣に受け止め、また物語の担い役としてどのような物語を紡いでいくのか(又はそうできず終わらせてしまうのか)が最も重要ではないかと考えている。人類の将来的可能性の保護に努めることが長期的に良い影響を与える一つの道であり、まだ他にも道はあるのかもしれない。

必ずしもこのような方面から存亡リスクに対処する必要はない。目の前に迫っている影響を考えてみるだけでも、道徳的筋合いは十分通っているはずだ。しかし、長期主義的倫理観は、存亡リスクを対処する上でやはり適していると言わざるを得ない。というのも、長期主義は存亡リスクにより閉ざされようとしている広大な未来にむけた、道徳的な方向転換に突き動かされるものだからだ。

もちろん、長期主義にも複雑性が伴う。

経済学者が将来的な利益を評価する際、割引という手法を用いる。それは現在から時間が経つとともに、価値を引き下げることを指す。一般的に使われている年率5%を私たちの未来に適用してみると、時間経過により未来の価値が激減してしまうことになる。ざっくり当てはめていくと、この割引率では私たちの未来全体は、次の年の20倍程の価値しかなく、2100年以降からその先ずっと、価値の総量は次の年の価値以下だということになる。これは、私たちの未来は極めて価値あるものだという概念を疑うべきだということなのだろうか。

それは違う。このような結論は、経済学の間違った応用から発生しているに過ぎない。問題の複雑さを考慮に入れ、割引を正しく適用させたら、未来の価値は極めて高いことがわかる。数学的詳細に踏み込むと論点から遠ざかってしまうので、省略させてもらう。だが、経過時間に即して、(金銭など有益な道具の価値と対比して)人の幸福価値を調整することは、特にこのような長期的未来を対象とする場合、ひどく不適切だ。例えば、100万年先に生きる人を一人を頭痛から解放することと、200万年先に生きる10億人をひどい苦痛から救出することと、どちらが価値あることかという問いに対して、100万年先に生きるたった一人を頭痛から解放することに価値があると導かれてしまうからだ。経済上の割引が正しく適応されれば、長期的未来の価値を過小評価することにはならない。その全文の説明は本書の付録A(253頁)に記載している。

長期的未来を保守することの意義をまったく異なる理由から問う哲学者もいる。彼らは、長期的未来を保護することの特異な性質は、恩恵を受けるタイミングばかりでないと指摘する。もし人類を絶滅から救うことができたら、この世に生まれ生きる人々の総数を変えることになるからだ。これは、単に今この世に存在している人々の命を救おうとするときには生じない道徳的論点を提起する。また、「人口倫理」と呼ばれるこの比較的新しい研究分野では、将来の世代を考慮することから、絶滅を回避すべき理由は見つからない、つまり将来の世代が生まれてくるかこないかはそもそも問題でない、という極端な考え方もある。

これらの事柄を完全に扱うと時間を要すことと、関心のある読者も限定的であると思われるため、詳細な議論については付録B(259頁)にまとめた。端的に言うと、これらの見方に妥当性は感じられない。彼らの考え方では、地球環境を汚染したり、又は気候変動を引き起こすことで、将来を汚すことを私たちが気にすべきなのか、そうではないのかということについて弁解するのに苦しむ。また、なぜ私たちにひどい将来を回避する強い理由があるのかを説明することもできない。また、これらの見解のうち、最もあり得ないものを除いては、修復不能な文明崩壊など、他の種の存亡的破局から将来の世代を守ることを支持しているのである。人類の絶滅を及ぼすものはほぼすべて文明も破壊するものであるはずなので、実質的な差はないのである。とはいえ、この問題は複雑なので、関心を持った読者の方には前述の付録(追記)を読んでほしい。

もう一点異議として触れておきたいことがある。私は若かった頃、人類が完全に消滅してしまったとしても全くは悪いことではないかもしれないと自分自身を慰めようとていた。人類が滅亡した後は、苦しんだり悲しんだりする人など人すらいないのだから。そのような将来に悪は存在しないのだから、どうして人類が滅びることが悪いことだと言えるのだろうか。もしも仮に、物事の正当性や是非を判断するために人間の存在が欠かせないのであれば、人間のいなくなった世の中にはそのような概念すら全く通用しないのだろうと考えていた。

だが今となれば、このような考え方が哲学者のエピクロスの古い主張「死はあなたにとっては悪いことではない。それを感じることはないのだから」と同じであるということに気づいた。この議論では、私が交通に飛び込み、命を落とせば、人生全体の時間が短くなり、それ故に私の人生は悪化するという点が見過ごされているのである。なぜなら、悪い出来事が増えるからという理由ではなくむしろ、人生を善くすることが減ってしまうが故に、それは悪とし、飛び込むべきでないからだ。エピロクスの倫理観は、悲しみや恐怖のなか人々に安らぎを与えるだろうが、行動の指針として取り入れるには適さない。また、そのように受け止められることもない。国家がエピロクスの論理を安全や医療政策の原理に用いたら?あるいは殺人犯を裁くための法律の制定に用いたら?どうなるか想像してみてほしい。

今世紀に大惨事が起きて人類が全滅すれば、人類全体としての寿命が短縮するため、それは悪いと言える。また、人類が幼年期の段階にある可能性もあり、まだ長く生きることができる可能性を考えてみれば、人類が絶滅することはなお悪いといえる。人類が絶滅したことで、たとえこれを悲しむ人すらいなくても、現時点からもはっきりとその惨状を憂うことができる。私たちが別の場所で起きた出来事の良し悪しを判断することができるように、時代が異なっても判断することが可能だ。これが正しければ、私たちがいなくなった後もそれは変わらない。人類が最後の瞬間を迎えようとしているときに、エピロクスの教説に安らぎを求める人々を私は責めることができない。ただし、人類がどれほど長い期間存続し、人類全体でどれほど質の高い人生を歩もうとするかについては、私たちの選択次第であり、私たちが責任をとるべきことなのである。

これ以外にもまだまだ反論すべき点はある。しかし、人類の未来を守っていく価値があるかどうかということを判断するために、すべての哲学上問題を解消する必要もないのだ。そもそも人類が絶滅してしまうのか、それとも何十億年も繁栄し続けるかという点において関心を示さない考え自体が、表面上すこぶる怪しい。そういった意味で、これを否定する理論は大いに疑うべきだ。

将来に目を向けることだけが、「存亡的破局」について考える唯一の道徳的アプローチではない。少なくとも私はこの見方に最も引きつけられ、これが私にとって存亡リスクに時間と労力を捧げる理由でとなっているが、他の伝統的道徳を基盤とした他の見方も可能だ。過去や、人類の性格(長所・短所)、人類の宇宙での存在意義といったそれぞれの観点から「存亡リスク」がどのように懸念されるのか、またそれ故に、異なる道徳的価値観を持つ者すべてが、共通の見解に辿り着くのはなぜなのか、大きく見ていこうと思う。

存亡リスクと過去

当然ながら、私たちは人類の第一世代ではない。文化、制度や規範、知識、技術、繁栄、これらすべては先人らによって一万世代にわたって築き上げられたものである。前章では、人類の甚だしい成功は、人間の世代を超えて協力する能力によるものだということについて触れてきた。親から受け継いだものに改良を施し、また全てを子へと受け継がせる。この連携なくしては、住まいや農地、踊りや歌といった伝統、文字、国家を手にすることはなかった。

この概念は保守派の政治哲学者であるエドマンド・バークによって美しく描写されている。1790年、社会について:

それはすべての科学における連携、すべての芸術における連携、すべてのものの高みを目指すことの連携である。何世代もの人間が携わらないことには、これらの目標は達成されることはない。生きている者同士の助け合いにとどまらず、今生きている者、既にこの世を去った者、未来の者すべての連携なのだ。

これは人類を保護することの、過去に基づいた理由なのかもしれない──孫たちだけでなく、祖父母に対しても、私たちは義務を背負っているという訳だ。

先人は、一世代では到底完結することのできない、壮大な人類プロジェクトの数々を始動させた。戦争を終わらせ平和を築くという課題、公正な社会を築くという課題、この世に理解を深めるといった課題たちである。65年、小セネカは世代を超える壮大なプロジェクトに明白に着手した。

長年の丹念な研究により、隠されていた真実が解き明かされる時がやってくる。たとえ一生をかけて空の研究に励んでも、これほどに壮大な題目を調査し尽くすことはできない。何世代にもかけて研究を重ね、解明していくしかないのである。我々の子孫にとって当たり前であることを、我々が知り得なかったということに、子孫が驚くような日がいつかやってくるだろう・・・。だが、我々の発見を喜ばせて欲しい。子孫にも新たな真実を発見してもらいたい・・・。解明される時を待つ真実が、我々の存在の記憶が失われるような遠いまだ来ぬ時代にも多く残されているのだろう。

これほどにも長い時が経っているのにもかかわらず、直接声を掛けられているようでど肝を抜かれる。この壮大なプロジェクトが二千年かかってなお展開し続けていることに気付かされ、驚嘆する。

一人の人間、いや一世代が全体でかかってもとても終えることのできないような壮大なプロジェクトである。だが人類全体では達成が可能なのだ。共に働き、各世代が少しずつ成果を積み重ねる。その間、力や資源を蓄え、また仕組みを整えながら、将来の世代がさらなる一歩を踏み出せるように人類を強化していくのだ。

今日まで絶えることなく世代がつながっていること、またこれまでの世代が築き現代へ与えたことの全てを思うと、頭が上がらない。抑えきれないほどの感謝の気持ちが溢れてくる。同時に、受け継いだ物事の大きさに圧倒され、その恩を少しも返すことができない事実に愕然とするのである。私たちより前に生きた千億もの恩人には永久に会うことができない。また、先人が築き残してくれたものは大きく、私一人や、今の世代全体で築けるものに遠く及ばない。

このような境遇は個人レベルにも見出すことができる。娘が誕生して以来、親が私にしてくれたことの偉大さがわかった。それは衝撃的な出来事だった。その気持ちを両親に伝え、心から感謝し、反対に恩返しができないことを詫びた。親は微笑みながら「それは違う」と言った。子どもが親に返すことはない、それは受け継がれるものだと。

私の親は哲学者ではない。だが、彼らの言葉には、過去から生じる、現代の世代の将来に対する責務を感じさせるものがあった。時の流れは、私たちより前に生きる者より、後に生きる者を助けることを容易としている。世代間の連携に対する考え方は、先人が常に義務を負っているように、非対称的なものだと理解するのが最も妥当かもしれない。したがって、この見方では、私たちの将来に対する義務は、私たちがまだ生まれていない未来の存在であった頃に、先人が私たちのためにしてくれたことに根付くと見ることも可能かもしれない。

人類の存亡的破局を迎え、人類存続のバトンを落とすことになれば、多くの意味で先人の努力に背くことになってしまう。先人の思い描いた夢を果たすことができず、彼らが後継者として私たちを信じてきた気持ちを裏切り、彼らが進展させ、私たちに託した課題の数々を置き去りにすることとなってしまう。よって、存亡リスクから目を背けることは、未来の人間に対してだけでなく、過去の人に対しても誤った行為だと言えるかもしれない。

それは、保護するべき過去の価値を破壊の脅威にさらす行為とも言えるだろう。哲学者のなかには、価値あるものの正しい扱い方は、促進するのではなく、守ったり、大事に保管したり、心に刻んだり、崇敬したりすることだと説いた。私たちは、一般的にこのような姿勢で文化伝統と向き合う。先住民の話す言葉や彼らの生活様式が永久に消滅することに警鐘を鳴らし、この先の危機から保護しようとやる気に満ちあふれている。

人類の価値をこのように考える人は、起こり得た物事の損失に、そう心を動かされないかもしれない。だが、粉々になった教会や寺、あらゆる言語の詩の数々が失われること、文化的伝統の永久的消滅などを思えば、恐ろしさを感じずにはいられないだろう。深刻な絶滅の危機(または永続的な文明の崩壊)に直面するなか、人間の持つ豊かさを保存し、大事にしようとする私たちの慣習からも、行動を起こすことの意味を見出すことができる。

最後に、私たちは過去の欠陥から生じる、将来に対する義務を背負っているのかもしれない。なぜなら、私たちは人類の過去の過ちを償うことができる可能性があるからだ。私たちが今滅びてしまえば、汚染や廃棄物の除去を行ったり、気候を産業革命以前の状態に戻したり、生態系を失われる前の美しい姿に戻すなどして、人間の環境破壊行為を埋め合わせることが永遠に叶わなくなってしまう。あるいは、組織的迫害、領土奪略、大量虐殺など、人類最悪の非人道的行為のなかには、個人が個人にではなく、集団が集団に行ったということを考慮してみよう。これらの過ちを適切に認識、記憶し、自らの行動を顧みる責任がある。こうした活動の将来の受益者が、傷を癒やしたり、罪を償う方法を見つけられるかもしれない。人類が終わりを迎えれば、人間の罪を償う最後の機会がことごとく失われてしまうことになる。

文明的長所

人類がうまく危機を乗り越えられれば、人類は人生の初期段階、つまり人間で例える青年期にあたり、素晴らしい大人になることを待ち遠しく思っている段階にあたる。青年期のように急にエネルギーに満ち溢れ、腕慣らしをしたくて堪らなく、新しい能力を手に入れた瞬間それを試したくなってじっとしていられない。私たちは将来についてじっくりと考えたりしない。もちろん、時には「長期的」な話もするだろう。だがそれでもせいぜい十、二十年先という場合がほとんどだ。一人の人間にとって長い時であっても、人類全体としてはそれは一瞬の時にすぎない。

青年期の若者と同様、人類にとってもこれから先の人生をどう過ごしていくかという詳細な計画は必要でない。だが、先の人生がどれほど長く続いていくのかということや、未来の広大さを念頭に置いて、計画を立てていくことは必要である。それなしには、将来にむけてどんなリスクを負う価値があるのか、人類の可能性を最大限発揮するために必要な能力は何であるのか、私たちは知ることができないからだ。

まるで多くの青年期の若者のように、人類はせっかちで、後先を考えずに行動する。時としてその性格にぞっとさせられる。これは、人間が短期的な利益と長期的な利益を適切に比較検討できないことが原因となっている場合もある。しかし、ほとんどの場合、私たちが長期的未来を完全に放置していることに根本的な原因があり、意思決定をする際に検討すらしていない。結果、青年期の若者のように、何かを決断したという自覚もないまま、危険へと突っ走ってしまうのである。

このように物事を考えてみることは、私たちの行動を評価する視点の一つとなる。ある人間の他者への行いを道徳的に判断するのではなく、人類全体の気質や特徴として捉え、その行いが人類の繁栄を促すものか、それとも繁栄を損なうものかという基準から判断してみるのである。すべての時代の人間を含んで、人類を集団的主体として捉えてみることで、人類が繁栄していく上での、組織的な強みや弱みの本質が明らかになってくる。これは最大規模でみた長所、短所である。これを人類(最大)規模で捉えて、文明的長所、短所と呼ぶことにする。これらを道徳的な重要事項として扱ったり、あるいは、単に人類の重要な欠点を鑑み、改善策を提案するための便利な手段として取り扱うことができるだろう。

すべての長所がこのレベルに達さなければならないということはない。だが、多くにおいて到達する必要がある。私たちが人類の将来の全体にかかわる危険に無関心であるということは、慎重さを欠いていることの表れだ。将来の世代の利益よりも、現在の世代の利益を大きく優遇する行為は、忍耐力の欠如の表れである。将来の重要性をわかっていながらも、それを優先しなかった場合、それは自制心の欠如を示している。事態を後退させることで、将来を諦めたり、もしくは価値ないものとして放棄することは、希望を抱く気持ちや根気強さの欠如の表れであり、また、自身の行動に対する責任感が欠けているということに他ならない。

アリストテレスは、かの有名な徳の理論で、人間の徳は一種の実践知によって支配され、導かれると説いた。これは文明的長所という考えにもよく合っている。人類の能力の向上に伴って、実践知も高めていかなくてはならない。

宇宙規模の存在意義

宇宙人はいるのか?それとも私たちだけなのか?科学分野において未だに解き明かされていない最大の謎の一つである。著名な天文学者マーティン・リース、マックス・テグマーク、カール・セーガンらは、もしも私たちが宇宙における唯一の存在であるとすれば、人類の生存及び、行動は、宇宙規模の意味を持つであろうと論じている。銀河や星たちと比べて小さいことは明白で、超新星やブラックホールと比べて目を見張らせるほどの存在感もない私たちが、最も希少で貴い宇宙の一部を成しているというのだ。人類の存在意義は、人間がどのような点でユニークであるかということにかかってくる。

人類が宇宙における唯一の倫理的主体であり──この宇宙で善悪を判断し、意思決定する能力を有する唯一の存在であり続けるのであれば──宇宙全体の物語のあらゆる責任は私たちにあるということになる。これは、宇宙中のすべてを正しく、適切で、最善な方向へと導く唯一のチャンスなのだ。これに失敗すれば、人類の持つ可能性だけでなく、すべての道徳的行動の可能性が取り返しのつかないほどに消失してしまうということになる。

また、人類が宇宙を探究できる唯一の存在であるとすれば、それは宇宙の探索する理由を付け加えることになる。なぜなら、我々人類なくして、宇宙の一部が宇宙全体を支配する仕組みを完全に理解することは不可能だからだ。

また、宇宙のなかで、地球が生命を宿す唯一の場所であるとすれば、地球上のあらゆる生命が重大な意味を持っていることになる。一滴一滴の水が生命と複雑な関わりを持ち、何かが生まれては死にゆく唯一の場所、何かが感じたり、考えたり、愛したりする、唯一の場所であるということになる。人類は地球上の生命の世話をし、自然の大災害からこれらを守り、やがては宇宙中で繁栄を遂げさせることができる唯一の生き物であろう。

「人類」という視点

本書の主たる目的は、人類という観点から、私たちの立たされている窮地について考えてみることである。倫理学とはもっとも一般的に「何をすべきか?」という個人の問いに答えるものである。これを時折、集団や国家、また(特に近頃になって)地球上すべてに生きる人々を視野に入れたグローバルな視点から考慮することもある。集団として何を成すべきかという点を押さえていくことで一人一人の役割が見えてくるのだ。

時として、これよりさらに踏み込んで、人類全体の視点に立って、倫理を探究していくべきではないだろうか。10,000世代に遡り、人類が達成したこととは何か、また無限に広がる未来の世界で人類が実現できることとは何かということに考えを巡らせ、現在の世代にとどまらず、長い歴史を刻もうとしている人類全体の視点に立ってみるのである。

このような視点に立ってみることで、私たちの生きる時代が壮大な人類の物語の中にどのように当てはまるのか、今私たちが迎えようとしている危機はどれほど大きなものなのかが見えてくる。せわしく過ぎる日々の出来事よりも、長期的未来を根本的に変えてしまうものは何だろうかと注意を向けるようになる。世界観や当世代における役割の考え方に変化が生まれる。人類にとって最も大事なものとは何か?人類の計画において私たちの世代の役目とは何だろうか?私の役目は何だろうか?

もちろん、人類は個人ではない。だが、集団を一つの主体として捉えてみることは、チームや会社組織、又は国家などが掲げる信念、要望や意向を深く理解することに役立つ。私たちは、企業戦略や国益、直近の国家の動きや狙いなどをよく話題にしていることについて考えてみてほしい。集団の精神状態は常に集団内での緊張を生むリスクがつきまとうことから、一個人のそれと比べた時に、首尾一貫していないことが多い。だが、もちろん個人にも内面的な迷いや矛盾はあり、だからこそ「集団的主体」という概念は、ビジネス界や国際情勢を解釈しようと試みる者の助けになるのだ。このように集団を主体と捉えることを、同じように人類全体のレベルで行うことは、ますます実用的で、且つ重要さを増している。文明が発生して以来というものの、人類はほとんどの間、孤立した民族に分裂してきた。今日になってやっと、海を超え、互いを発見し、地球規模の文明を起こそうとしている。人類史の長さとその輪郭、あるいは人類の秘める真の可能性が確認されたこともまた記憶に新しい。地球規模の協力が要求されるような重大な危機に直面したのも、ごく最近の出来事だ。

だが、常にこのような視点で物事を考えるべきではない。ほとんどの道徳的課題は、個人レベル、あるいは人類より低い集団のレベルに存在している。大局的な問いが生じた時でさえも、時として人類がどのように分断されているか、つまり、力や責任の大きさの違いに焦点を当てることの方が重要である。しかし、これまで確認してきたとおり、時として地球規模の視点で物事を見つめることに価値があるように、さらに遠ざかって、人類という視点から物事について考えてみることも重要なのだ。

「文明の長所」という概念も、このような見方の一つである。第七章では、この見方を人類の壮大な戦略に当てはめてみようと思う。永続する人類という全体像から見ることで、現世代の責任や義務が明らかになってくるはずだ。

不確実性

このようにして、現在や未来、過去、人類の性格、あるいは人類の宇宙規模の存在意義といった視点から、人類の存亡リスクの重要性を理解することができる。個人的には、人類の現在の価値や未来の価値に根付く理由に最も確信を持っているが、さまざまな視点から考察することが可能であることからも、問題の大きさを察することができる。単独の学派の道徳思想に頼らなくとも、非常に多くの視点からも自然と浮かび上がってくる問題なのだ。それぞれの方面から示唆される問題の大きさや性質は異なっているが、それらをすべて合わせれば、存亡的破局を回避することが道徳的に極めて重要であることを支持する大きな土台が提供される。

この時点で読者の多くは、存亡リスクの重要性を理解していることと思う。その中でまだ疑念が解消できない読者もいるだろう。私も絶対的な確信を持っている訳ではないため、共感する。私の疑念は二つから成る。一つ目は、日常的な不確実性だ。つまり、将来何が起こるかがわからないという不確実性である。人類の広大な可能性を示す根拠が、そもそも間違いの元であるという可能性はあるのだろうか?二つ目に、道徳的不確実性が挙げられる。より具体的には、道徳的義務感に対する不確実性だ。私は、後世に対する私たちの義務感の強さを見誤っているのだろうか?

しかし、存亡リスクを世界の優先課題とするのに、確実性は必要ない。なぜなら、これは利益と損失の釣り合いがとれているものではないからだ。そうする義務がそれほど存在していないのに、人類を守るために本気で投資を行った場合、私たちは他の偉大な目的に投じることのできた資源を無駄にしてしまうという過ちをおかす。しかし、未来を守る義務が本物であるにもかかわらず、それを怠ってしまえば、はるかに悪い結果を招くことになる──人類にとって最大の義務を果たせず、取り返しのつかない結果を招く。私たちが未来を守ることに妥当性を感じる限りにおいては、それを怠ることは極めて無謀な行為なのである。

たとえ誰かが将来を悲観し、人類の存続がもたらす利益よりも、損害のほうが大きく、人類の将来性の期待値が負になると考えたとしても、人類の可能性を守る理由はあるといえる。一つに、存亡的破局後の未来(全体主義による永久的世界支配など)が恐ろしいものであることは議論の余地がない。だから私たちは注意を払う必要がある。だが、もっと深い理由もある。それは、人類の未来が価値あるものか、そうでないのかを知ることが、非常に価値ある情報になるからだ。人類が生存する意味はあるのか、という極めて重要な問いに対する情報を多く得るまでは、人類を守り続けることが最も良い策略であるはずだ。

私たちの子孫がより良い情報を得ることができるのは、未来の価値に関してだけではない。現在、人類は一般的にまだまだ経験が浅い。私たちは地球規模の文明やこの星を管理することの複雑さをほとんど経験してはいない。私たちは無知によって将来をはっきり展望することができず、また偏見によって歪んだ図を眺めているのである。しかし、うまくことが運べば、私たちの子孫は、私たちよりずっと賢くあれるはずだ。彼らには、自然の法則をより深く理解するための時間が与えられる。そして、彼らは公正で、巧みで、成熟した文明から、強みと本質を引き出すだろう。彼らの決断は全体的に、どんなリスクがあるのか深い理解が反映されたものであろう。私たちは、人類史のほんの始まりに立っていると考えることができることから、現代に生きる者は謙虚さを失うことなく、後世へ選択肢を残し、彼らがより明確に物事を見極め、より賢く選択する機会が確実に与えられるようにすることが賢明である。

存亡リスクを放置する私たち

世界は今、存亡リスクの重要性に目覚めようとしている。重大な脅威を評価し回避するための取り組みが始まってはいるが、問題の深刻度に対する取り組みの規模が追いついていない。世界の有限な資源の配分率という点からみれば、存亡リスクがひどく見過ごされた状態にあることが歴然としている。

人為的パンデミックが起こる可能性(人類の直面する一大リスクであることが読者の方にもすぐに明かされる)を例にとって考えてみよう。生物兵器を継続的に禁止することが使命の国際機関(生物兵器禁止条約)の年間予算はわずか140万ドルであり、平均的なマクドナルド店舗の年間運営費以下である。高度な人工知能による人類存亡リスクの低減には、全体で数千万ドルが投じられている一方で、人工知能の能力開発には数十億ドルが注ぎ込まれている。存亡リスクに歯止めをかけるために、世界全体でどれほどの金額が投じられているのか正確な数字を割り出すことは難しいが、自信を持って、記述できることがある。それは、私たちは毎年自分たちが開発したテクノロジーが自分たちの身を滅ぼさないよう資金を費やすよりも、アイスクリームにより多くの資金を費やしているということだ。

科学的研究においても似たような話がある。存亡リスクより危険の規模が小さい事故や災害のリスクについては、かなりの研究が行われている一方で、人類の長期的な可能性を破壊し得るリスクは見過ごされている。1991年以来ずっと、数分で何百発ものミサイルを発射させられる状態にあるというのに、アメリカとロシアが本格的な核戦争をした場合を想定した気候予測モデルが発表されたのは、二度しかない。気候変動のメカニズムを解明しようと多大な努力がなされている一方で、最悪のシナリオ(例えば6℃以上の温暖化を想定したもの)についてはほとんど研究されていない状況が続き、公式の報告書や政策議論の場からも無視された存在となっている。

存亡リスクの現実と重要性と向き合えば、とっくにそれだけの注目を浴びても良いのではないか?なぜ体系的に無視された状態が続いているのだろうか?と疑問が生じる。その答えは、経済学、政治学、心理学、存亡リスクの歴史から見出すことができる。

経済の理論によると、存亡リスクの価値は市場や国家、あらゆる世代によって過小評価される運命を辿るという。市場は、様々な物資やサービスを供給する素晴らしい機能を果たす。だが、体系的に供給不足を招く部類もある。清潔な空気を例にとって考えてみよう。大気質が改善されても、利益は特定の個人によってのみ享受されるのではなく、その大気圏に暮らすすべての人がその恩恵に授かる。たとえ私が清潔な空気の恩恵を受けたとしても、それによりあなたが受けられる恩恵が減少するという事態は発生しない。この二つの性質を持つものは、公共財と呼ばれ、市場による供給が難しい部類である。これらは地方や国レベルで、公共財の提供に財源を確保・管理をすることで解消することが一般的だ。

存亡リスクから人類を保護することは、公共財の部類に入る。これは私たち全員に利益をもたらす。私が保護されることで、あなたが犠牲になることはない。こういった理由から、存亡リスクは市場で注目を浴びないと予測を立てることができる。だが、よりひどいことに、存亡リスクから人類を保護することは、地球規模の公共財なのだ。受益者をたどれば地球をぐるっと一周できる。つまり、各国政府でさえも人類の存亡リスクを見過ごすと予想することができる。

私はイギリスで本書を執筆している。イギリスの人口は七千万人ほどで、世界の国々の中では人口が多い方に入る。だが、現在の世界人口比でみれば1%にも満たない。このことは、イギリスが単独で存亡リスクへの対処に乗り出せば、その対策費用をすべて背負いながらも、そのうちの1/​100しか利益を得られないことになる。言い換えると、事情に精通した政府が、国民の長期的利益を守るために行動したとしても、政府は、その重要性を1/​100にしか見ていないことになる。これが、ロシア政府であった場合は1/​50、アメリカの場合1/​20、中国でさえ1/​5、といった具合に存亡リスクの重要性を低く見てしまうことになる。このように利益の大半が他国に流出するため、各国は他国の努力にただ乗りしたい願望を持っている。こうして本来ならすべての人にとって価値ある仕事が放置されてしまうのである。

人類の保護の供給不足を招く同じ作用で、リスクの過剰供給が引き起こされる。イギリス国民が存亡リスクにより受ける損害は、全体のたった1%であることから、政府はリスクを誘発するような政策のマイナス面から逃れようとするのである(個人や、国家より小規模の集団が存亡リスクを引き起こせるようになれば、事態はさらに深刻化する)。

つまり存亡リスクは、地球規模で管理することが最適である。しかしながら、そのような役割を担う効果的な世界的組織は存在していないことが、存亡リスクの管理をますます困難としている。これは世界の反応時間を延長するばかりで、反対国が全体の取り組みを頓挫させる可能性を高めている。

このような各国の壁を乗り越え、有効的な条約や政策にかじを切ることに成功したとしても、私たちは最終的な課題に直面する。受益者は地球全体に存在しているだけでなく、世代間を超えて存在するという事実だ。つまり、将来を含む地球上すべての人間の利益となる。存亡リスクから人類を保護すること、これは過去から未来までを含んだ全世代のための地球規模の公共財なのである。たとえ世界が一丸となって行動を起こしたとしても、まだ存亡リスクを低く評価している可能性があり、大いに放置された状況が続くと考えられる。

政治学からもさらなる理由が見つかる。政治家や公務員の関心は短期的なものに集中しがちだ。彼らの思考や行動は、次第に選挙や報道の周期にのみ込まれていく。緊急な措置が要求される課題でも、彼らの任期中に響かない問題に注意を向けることはとても困難なことなのである。彼らがそのような課題を先送りにしても、罰されることはないだろうし、またこれ以外にも世間を騒ぎ立てる緊急な課題で手一杯の状態だ。

例外は、早期行動を推し進める積極的な有権者が現れた場合であり、彼らの善意はある種の即効性のある利益として機能する。このような有権者が最も力を発揮するのは政策の利益が社会のごく一部に集中する場合であり、時間をかけて政治活動を展開するだけの価値が見込める。しかし、存亡リスクの取り組みについては、その利益は地球上のすべての人々に分散されるため、問題の主導権を握れるような有権者がいないことになる。これが問題が見過ごされる理由だが、克服は可能である。環境、動物の権利、奴隷制廃止など過去の事例からも確認できるように、市民が親身になって、他者の苦境を思いやり、行動を起こせば、情熱と決意をもって、指導者の責任を追及していくことができるだろう。

もう一つの政治的理由は、この問題の重大さに関わるものだ。年配の政治家や公務員に存亡リスクの話題を持ちかけたところ、共通の反応がみられた。真の深い懸念と、人類が直面する最大のリスクを対処するのは「私たちの仕事の域(対価)を超えている!」という気持ちの両方が感じ取れた。私たちは個人の守備範囲を超える仕事をするよう政府に期待しているが、これは国の守備範囲さえも超えている。政治的(及び経済的)な理由から、存亡的リスクには国際的な大規模の取り組みが必要な問題だと思えるのだが、国際機関の持つ力はあまりに弱く、問題は宙に浮いたままの状態である。

行動心理学から、私たちが存亡リスクを見過ごす理由が、もう二つ特定できた。それは、ヒューリスティックス(発見的手法)とバイアスに根付くものである。これらは私たちがこの複雑な世の中で手っ取り早く意思決定を行うために用いられている。一点目に、利用可能性ヒューリスティックスがある。これは経験より過去の事例を想起することによって、ある出来事が起きる可能性を見積もる私たちの傾向である。これは、最近の悲劇を繰り返さないよう強い感情を掻き立てる(特に、生々しかったり、広く報道されたりしたものはなおさらだ)。裏返せば、私たちは多くの場合、人生で経験したことのない物事や、未だかつて起きたことのない稀な出来事を軽く捉えてしまう。たとえ前例のない出来事が高確率で起きることを専門家が警告しても、いざそれが現実になるまで、その危険を信じることがなかなかできずにいる。

多くのリスクに関しては、利用可能性ヒューリスティックスのおかげで私たちは適切に導かれ、試行錯誤しながらも対処法を確立しようとする。だが、存亡リスクへの対処については、これが完全に機能しなくなる。存亡的破局は、もとより人類が経験したことがないばかりか、その事態に至ってからでは取り返しのつかないような性質をもつ。その惨状を目のあたりにすることでしか、私たちが危険を認識できないのであれば、どこにいるかわからないまま、崖っぷちから転落することになる。

私たちの状況を鮮明に感じることを必要としているが、それは利他的行動を起こす役割も果たしている。また、その私たちの特性は、利他的行動を触発する役割も果たしている。社会は危機に瀕した人々に対して敏感に反応し、同情することを得意とする。例えば、被災者の姿を目にしてそのような感情を抱く、それに対して必ず行動をとる訳ではないとしても、そのような感情を抱くことは確かである。はっとしたり、不安で胸がどきどきしたり、被害者の身を案じたり、犠牲を悲しんだりする。ただ、私たちが必要としているのは、より広がりを持った思いやりであり、より想像力を膨らませた思いやりである。つまり、時間的にも空間的にも離れた人々の存在を私たちと同じように大事にし、長期的に効果を発揮する思いやりが必要なのだ。

また、私たちはスコープ無反応性として知られる、バイアスにも悩まされている。これは利益と損害の規模を敏感に感じ取ることができない特性を指す。私たちは、十倍重要な物事に対して、十倍心配できるようにはなっていない。また、危険度がある域に達した段階で、私たちの関心は飽和状態となってしまう。例えば、私たちは核戦争ひとまとめにして大惨事だと扱う傾向があるが、少量の核兵器が用いられる国家間の核戦争(数百万人が死亡する)と、各対決で数千個の核兵器が用いられた場合(数千倍の死者を出し、人類の未来を破壊する可能性がある)の見分けがつけられずにいる。存亡リスクはその危機に瀕しているものの大きさから道徳的に重要な意味を持つが、スコープ無反応により私たちはその重要性を著しく低く見積もってしまうことになる。

このような理由から、存亡リスクの深刻さは見過ごされ、それは人々の十分な関心を得る上で大変な課題となっている。だが、私は希望を持っている。なぜなら、存亡リスクは歴史的に新しく、それゆえに私たちの社会一般の道徳的な行動様式に組み込む時間がなかったと言える。しかし、この状況が変わる可能性は十分ある。

人類は誕生して間もない頃から、滅亡を予期していたに違いない。孤立した集団や部族が何らかの危機を迎え死に絶えたとき、最後の生存者は自分たちで最後か、それとも自分たちのような者が他の場所で生きているのかと考えたことだろう。ところが、人類全滅の可能性やその大義について慎重に考えられたのはつい最近の出来事であり、これまでほとんどなかったようだ。

しかしながら、20世紀半ばの核兵器の誕生によって、人類絶滅が「わずかな可能性(または、遥か先の話ではあるが確実に起きること)」から「差し迫った危険」へと変化した。広島へ原爆が投下されてからわずか三日後、バードランド・ラッセルは、人類の未来への影響について、初めのエッセイを執筆し始めた。それから間もなく、兵器作成に携わった科学者の多くが、地球規模の破壊を回避するための会話を主導していくために組織結成し、『原子力科学者会報』を創刊した。アルベルト・アインシュタインもすぐさま指導的発言でリードし、ラッセルと共に、核戦争が人類の終末をもたらすという明確な根拠に基づいて、ラッセル=アインシュタイン宣言に署名し、公的活動を最後とした。アイゼンハワー、ケネディ、ブレジネフといった冷戦期の指導者らも、人類が全滅する可能性やその意味合いを次第に認識していった。

1980年代初め、新しい思想の波が起きた。ジョナサン・シェル、カール・セーガン、デレク・パーフィットにより、新しい危機の理解に偉大な変化がもたらされた。三人とも、無限に存在し得る未来の損失の方が、現在の一時的な損失より重大であることに気付いていたのだった。核兵器が核の冬を引き起こす可能性があるということが発見されて以来、ロナルド・レーガンやミハイル・ゴルバチョフはその影響を受け、核軍縮し、戦争を回避する方向へと動いた。

市民もこれに反応した。1982年、ニューヨークのセントラルパークには百万人が集まり、反核デモを行った。これはアメリカ史上最大規模の反対運動だった。それは、私の生まれた故郷であるオーストラリアでも行われた(オーストラリアは核保有国ではない)。私たちもこの世界的反対運動に加わった。両親は幼い私をデモに連れて、幼い我が子を守るために闘った。

このように、人類の存亡リスクに対する危機感は、二十世紀において非常に影響力が高かった。しかし、核による危険があまりに大きかったために、核戦争という名の下で人類の危機のすべてが唱えられたのだった。哲学者らも、これを新しい深刻な問題とみて「核の倫理」として扱い、「存亡リスク」としては扱わなかった。冷戦が終わり、脅威が低下し、話し合いも行われなくなった。だが、この一連の出来事は、存亡リスクが地球規模の最重要事項となり得ること、エリートから市民レベルまで幅広い階層の注意をかき立てることができることを示している。

存亡リスクに関する現代の考え方は、ジョン・レスリー著の『世界の終焉』(1996)より軌跡を辿ることができる。彼は、核戦争による脅威から人類絶滅へと議論を広げた。レスリーによる作品を読み終えたニック・ボストロムは、それをさらに発展させ、幅広い分野から存亡リスクを割り出して、分析を行った。本書はそれらのリスクに焦点を当てている。

私たちの道徳的、政治的伝統は、何千年にわたって構築されてきた。したがって、私たちの関心事は、時代を超え、人類が常に抱えてきた問題であることがほとんどである。時代とともに新しい可能性が切り開かれた時、それをを従来の慣習に取り込むには、たとえそれが道徳的に重要なものであっても、時を要するのである。存亡リスクはまだ歴史に新しく、奇妙に思えるが、近い将来私たちの共通の道徳的伝統となっていくことを願っている。環境主義が国際政治の場に台頭したのは私が生まれる二十年前程だったにもかかわらず、私は環境問題に重点を置いた道徳教育を受けて育った。私たちの世代にとってはこれまで環境問題が軽視されていたことがあり得ないことのように感じられる。このようなことがまた現実化する可能性がある。

本書を執筆した主な目的の一つは、存亡リスクを見過ごす状況に終止符を打ち、人類の安全を守っていくことの重大性を確立し、相当な世界の注目を集め、相当な資源を注ぎ込むよう重要課題に殿堂入りさせることだった。相当とは、どれ程なのか?これについては議論の余地があるだろう。ただはっきりしているのは、これまでよりもっと注目が必要だということだ。まずは、アイスクリームに費やすよりも多くの資金を私たちの未来を守るために使うことから始めてみて、そこから何をするか決定していくことを提案する。

これまで、人類の歴史を大きく眺め、人類の秘める可能性の大きさを確認し、なぜ人類の未来を守ることが最も大事であるのか確認してきた。しかし、これまで読者は、人類が真のリスクに直面しているという私の言葉をただ信じる以外なかったと思う。そこで、今度は存亡リスクに注目して、背後にある重要な科学的根拠を検証し、最も懸念すべきリスクはどれなのか整理していこうと思う。これから三つの章にかけて、人類が歴史上直面してきた自然リスク、二十世紀の人為的リスクの幕開け、そして今後百年間で直面する新しいリスクについてそれぞれ探究していく。