満足感と効用は別々に手に入れる

This is a Japanese translation of “Purchase Fuzzies and Utilons Separately

by Eliezer Yudkowsky 2009年4月1日

昨日のことだ。

経済学で非常に古いパズル/​考察がある。弁護士が1時間余分に働いて、そのお金を寄付して人を雇う代わりに、自ら炊き出しに参加して1時間のボランティア活動をする。

もし炊き出しで1時間働くことが、その弁護士にとってモチベーションを保ち、なぜ弁護士として仕事をしているかを再認識するために必要であるというのなら、それは結構だ。 しかし、弁護士として働いたうちの一部寄付するべきである。それこそが専門的分業の力であり、大人としての責任だと思う。その寄付金は、炊き出しに参加する権利を買うもの、あるいは炊き出しに参加した時間を正当化するするものと考えてもいいかもしれない。

私は小さな老婦人のためにドアを開けたことがある。 最後に文字通りこのようなことをしたのがいつだったか実は覚えていない(去年あたりであったはずだ)。 それでも、この1ヶ月以内に散歩をしていた折、車道に駐車しているワゴンのトランクが完全に開いていて、車内が丸見えになっているのを発見したことはある。初めは荷物を出し入れしているのかと思い、中を覗いてみたが、そうではなかった。 車の周りを見回して、持ち主が何かしているのではないかと確認もした。 そして、ついに私は車の持ち主の家まで行き、ノックをして家のベルを鳴らした。そうだ、トランクはうっかり開いたままになっていたのだ。

普通の人の場合、これは単純な利他的行為であり、これが示すのは他人の福利に対する心からの思いやりや、行動しないことに対する罪悪感への恐れ、自分自身や他者に自分が信頼できる人物であると示したいという欲求、利他的行為を快楽だと感じる、といったことだろう。 ちなみに、これらはどれも完全に正当な動機だと思う。最初に挙げた動機のように純粋に他者への思いやりによって起こした行動にはボーナスポイントを与えるかもしれないが、だからといって他の動機を減点するわけではない。動機がどうであれ、人が助かればそれで良いのだ。

しかし、私の場合、すでに非営利分野で働いているので、同じ60秒をもっと専門的に使って、人々により大きな利益をもたらすことができたのではないか、という疑問がさらに湧いてくる。 つまり、私が信じている他の事柄を踏まえた上で、今の時間の使い方が最善であると本当に言えるだろうか。

わかりきった弁明(というより、合理化)は、利他的な行為は、例えば音楽を聴くことよりも、ずっと効率的に意志力を回復させる作用があるということだろう。さらに私は、自分が理屈上でのみ利他主義になることができるとは思えない。つまり、問題を見過ごしてしまえば、自身の利他の精神も薄れていくのではないかと思う。試したことはないが、そんなリスクを冒す価値があるとも思えない。

しかし、もしこれが弁明だとしたら、私の行為を善行として弁護することはできないだろう。私が挙げたのは自分への利益であるから。

まあ、私が自身の行為を私心ない善行であると主張しているなんて、誰も言っていない。そう、それは利己的な善行である。それで意志力が回復して利他的でいられるなら、間接的に他者への利益になる(と私は思っている)。もちろん、他者の利益になるはずの利己的な行為は「不純な動機」だから信用できない、と言われるかもしれない。しかしそれならば、同じ原理で、その不純な動機とされるものではなく善行そのものを見るべきだ、と容易に応じることもできる。

でも、それでいいのだろうか。 つまり、私は本当にそれを「利己的な善行」と呼び、利己的であることに罪悪感を感じるのではなく、そこから意志の力を回復させることができるだろうか? どうやら私にはできそうだ。そんな風になるとは驚きだが、なるようになるのだ。トランクが開いていることをノックして伝え、相手が「ありがとう!」と言う限り、その一日分の素晴らしい善行を終えたように私の脳は感じるのである。

もちろん、個人差もあるだろう。 意志の力を回復させる術を編み出そうとする際の問題は、人によってうまくいく方法が違うということだ。 (つまり、 私たちは、その違いを予測する深い規則を理解することなく、表面的な現象のレベルで探っているのだ)

しかし、もしあなたが私と同じように、利己的な善行でもうまくいくと思うのであれば、「満足感」と「効用」を別々に手に入れることを勧める。これらは同時に手に入れようとしてはいけない。両方を同時に得ようとすると、どちらも上手くいかないのだ。もし、ステータスが重要なら、ステータスも別に獲得すればよい。

もし私が、慈善事業に参入したばかりの億万長者にアドバイスをするとしたら、次のようなことを言うだろう。

  • 満足感を得るためには、まず勤勉だが生活に困窮している女性を見つけよう。彼女の夫は勤務時間が短縮され、彼女は今まさに州立大学を中退しようとしている、そんな境遇だ。その彼女に、個人的に、しかし匿名で1万ドルの現金小切手を渡す。これを満足いくまで繰り返そう。

  • 友人たちの間でステータスを得るには、今最もホットなXプライズ財団に10万ドルを寄付するか、あるいは最も安価で最もスタイリッシュに見える他のチャリティーに寄付するのも良い。それを大々的に宣伝し、プレスイベントにも顔を出し、今後5年間はそのことを自慢し続けよう。

  • そして、徹底的なまでに冷静に計算し、スコープ無反応性[1]曖昧さ回避といった認知バイアスにとらわれたり、ステータスや満足感にこだわったりせず、成果を効用に変換するための共通の仕組みを考え、不確実性をパーセント確率で表すことを試み、1ドルあたりの期待効用が最大となるようなチャリティーを見つけよう。 その限界効率がリストの次の慈善団体の限界効率を下回る金額まで、寄付したいだけ寄付するのだ。

私はさらに、その億万長者に対して、効用のために使う金額は満足感を得るために使う金額の少なくとも20倍であるべきだとアドバイスする。利他的であり続けるために5%の経費を払うのは合理的といえよう。冷静に判断すれば、その倍率の高さならば満足感を得るのが妥当であると認められるだろう。ただし、本来の満足感を得る行為は、積極的に害を及ぼすのではなく、役に立つものでなければならない。

(本質的には、ステータスを得ることと利他主義は関係がないだろう。Xプライズ財団に寄付することで、同価格のスピードボートを買うよりも友人たちから尊敬されるのなら、スピードボートを購入する理由は特にない。ただそのお金は「友人から尊敬を得る」欄に入れ、「利他主義」の欄には含まないように注意してほしい)

しかし、主な教訓は、これら3つのもの(満足感、ステータス、期待効用)は、別々に獲得し、一度に一つずつ最適化した方がはるかに効率的であるということだ。例えば、乳がんの慈善団体に1,000万ドルの小切手を送ることは、同じ1,000万ドルをパーティーか何かに使うよりもはるかに立派だが、それでも、一人の人間の人生を変え、かつその瞬間に居合わせることで得られる幸福感を凝縮したような感覚は全く得られないだろう。 X-Prize財団のようなホットなものに寄付しても、他の金持ちがちょっとうなずく程度で、パーティーでの大した話題にはならないだろう。そして満足感やステータスへの関心をすべてなくせば、1,000万ドルで桁外れに多くの効用を生み出せる、環境に恵まれなかっただけのチャリティーが少なくとも1,000は存在するはずだ。 3つの基準を一度に最適化しようとしても、どの側面も少しずつ満たされるだけで、どれもあまりうまく最適化されないまま終わってしまう。

もちろん、億万長者でなければ、物事をこんな風に効率的に進めることはできないし、簡単に多くを獲得することもできない。しかし、私はそれでも、明るく活発に活動していて、理想的には直接受益者と会えるような比較的安価な慈善団体を見つけることが、満足感を得るためには良いと思う。 炊き出しボランティアをする、 あるいは、小さな老婦人のためにドアを開けてあげることで、ほっこりとした気持ちになることができる。 それは、効用を獲得するための他の努力によって正当化すべきだが、これを効用を獲得することと混同してはいけない。ステータスに関して言えば、おそらく素敵な服を買うなどすれば比較的安く手に入るだろう。

そして、期待効用を最大化させる時には、そりゃあもちろん、「ただ黙って計算する」[2]ことだ。

  1. ^

    スコープ無反応性に関する記事はこちら(日本語)からお読みいただけます。

  2. ^

    「ただ黙って計算する(shut up and multiply)」はこの原文が投稿されている Less Wrong コミュニティにおいて有名な概念です。期待効用計算の結果が直観とは異なるものであったとしても、誤っているのが計算ではなく直観だと判断できる場合において、ただ黙って計算するスキルとは、直観に頼りすぎず期待効用計算はときに正しいと受け入れる能力です。

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